寝つきの悪い1人の人間として

 昨晩の寝つきは悪かった。ベッドに入ったのは0時をまわって少し経ったぐらい。目を瞑って、眠りに落ちるのを待つが一向にその気配はない。夕方に少し頭痛がして2時間ほど寝たので、それが影響しているのかもしれない。
 そのまま時間はどんどんと過ぎ、気づけば3時になろうとしていた。試しに何度か意識的にまばたきをしてみると瞼は円滑に動き、重さを感じさせない。腹も減ってきた。このまま横になり続けても望みは薄い気がしてきたので、一度起き上ることにした。トイレに行きながらどうしようか考えたところ、ひとまず空腹を解消し、温かいものを飲んで体を温めるのが良いだろうということになった。
 冷蔵庫を見てもそのまま食べられるものは無く、ちょうど飲料水も切らしていた。仕方がないのでコンビニに行くことにする。着替えて外に出る。歩きながらどこのコンビニに行くかを考えていると、最近ローソンでテイクアウトのミルクを売っているのを思い出した。この機会に一度買ってみようとローソンへ向かった。
 菓子パン1つをもってレジに向かい、レジでホットメープルミルクみたいな名前のものを注文するがメープルを切らしているとのことだったので、代わりにホットミルクを注文する。注文を受け、店員は背後にある飲み物を充填するための機械を操作し始めるが、すぐに立ち尽くすような状態になった。どうやらミルクを温めるのに時間がかかっているらしい。そのまま2分ほど待つ。そうするうちに箱を高く積んだ台車が2台3台と店に入ってくる。商品の搬入のようだった。レジの周りに目を向けると、中華まんや、からあげクンなどのホットスナックの棚が全て空になっている。この時間帯は機械の洗浄、メンテナンスや商品の搬入といった次の日の朝に向けての準備の時間に充てられていることが推察された。迷惑になる時間帯に来てしまったかもしれないと少し申し訳なく思った。
 注文してから5分ほど経ったころ、機械の準備が整ったようで遂にミルクがカップに注がれる。店員はフタを閉め、台に置き「どうぞ」と言う。カップを手に取ると、その軽さと中の液体の動く感じからカップの半分以下しか中身が入っていないことが直ちに確信できた。少な目とかそういうレベルの量ではないので、明らかに何らかのミスに由来するものに違いない。指摘しようとも思ったが、これだけの量が出て来るのにも時間がかかったことを考えると、まあいいかという気になり、それを手にして店を出る。出てすぐにフタを開けて中身を見るとやはりカップの高さの3,4割ほどしか入っていない。店員はフタを閉める前に中身を見ているはずだし、カップを手に持ってもいるのだから気づいていないはずはない。それをそのまま提供するという判断に非難の気持ちを感じないではなかったが、その時の店員の心境を考えると少し可笑しいような気がしてきて、それが勝った。1口飲むと案の定、生ぬるい。

撮っておけばよかった映像

 前に高知に観光に行ったとき、特に足摺海底館をもとめて竜串を訪ねたときのことだ。竜串の海岸は岩場になっていて、それらの岩は奇妙な形をしているのが少し有名だ。しかし岩の形は今回の関心ではない。

足摺観光記録 1/3 岡山~中村~四万十川~公園 - アドレナリン
足摺観光記録 2/3 公園~足摺岬~足摺テルメ~あしずり祭~公園 - アドレナリン
足摺観光記録 3/3 プラザパル~竜串~足摺海底館 - アドレナリン

 岩場にはフナムシが大量にいた。大量にいたといっても、よそと比べて遥かに多いという訳では無くて、見た印象として無茶苦茶いるなと思うほどいたということだ。同程度いる場所はいくらでもあるだろう。フナムシは近づくと一斉に逃げていくからじっくりと見るのは難しい。ただそのときにはその機会があった。
 海岸のある小岩は周囲が海水に囲まれ、一部だけが海上に露出していた。周囲の水深は浅い。恐らく潮の引いているうちはその小岩は陸とつながっていたのだろう、その小岩の上に1匹のフナムシがいた。岩の周囲は浅いとはいえフナムシにとっては脅威になるほどは深い。幅5,6cm程の水を渡ることが出来れば陸とつながっている岩へと移動できるが、フナムシには困難であるように思えた。潮が満ちればその小岩は海中に沈むだろうから、死を待つばかりだと思いながら眺めていた。
 フナムシは小岩の上をチョロチョロ動き回り退路を探しているようだったが、小岩の全貌が見えている僕にとっては無駄な試みとしか思えなかった。そのうちフナムシは小岩の縁の方へとじりじりと寄っていった。波のタイミングによってはそのままさらわれてしまうほどの場所にまで出ており、危うさを感じながら見ていた。
 それで、この後の記憶がぼんやりしている。最終的にフナムシは波の引いたタイミングを見計らって跳躍し、目標の岩に辿り着いた。それに感心したのは覚えている。しかし跳躍は一発で成功したわけではなく1,2回小さな失敗をしたはずなのだが、それがどのような失敗だったか思い出せない。この経験の肝の部分だと思うのだけれど全然覚えていない。僕にとって貴重なフナムシを凝視できる機会であり、内容もエンタメ性のあるものだったのだから動画に撮っておけばよかった。

 今日は雨が降っていて、明日には台風が来るらしい。風はまだほとんど無い。雨は弱くは無いが、それほど強くもない。それで買い物に行った。道中、ある飲食店の壁にパイプが埋め込まれていて、そこから雨水がどばどばと排出されていた。その光景が面白かったのでしばらく眺めた。通り過ぎた後、あれを撮っておけばよかったという思いが込み上げてきて、それをとっかかりとしてフナムシの事を思い出した。排水の様子は帰り道に動画に収めた。

美味いものリスト

 少し前から美味いものリストを作っている。名前の通り美味いものをリストアップしたものだ。iPhoneのメモ機能を使って作成している。何かを食べて美味いと感じ、記録しておくべきだと判断した時に追加することにしている。このようなリストを作っているのには理由がある。それは日々の生活の中で美味いものを食べたいと思ったとき、その欲求に十全に応えるためだ。
 美味いものを食べたいと思うときには、何かきっかけがあり食べたい対象が明確な場合もあるが、そうではなく何か美味いものを食べて安らかな気持ちになりたいというような漠然とした欲求が湧く場合もある。美味い物リストは後者の願望に応えるためにある。
 無策でこの願望に応えようと頭の中を「美味いもの」というキーワードで検索しても中々上手くいかない。大概の場合、ステーキや寿司などといった通俗的なご馳走イメージに引きずられたり、「最近食べたあれは美味かった」というような少し前に食べたばかりのものと結びついたりしてしまうことが多い。これらがその時求めている美味いものへの回答になることは少ない。
 この方法が上手くいかない理由は、美味いという言葉が単一の味や感覚を表す言葉ではないことと、美味いという感覚が反芻して思い出せるようなものでは無いことにあるように思う。つまり「美味い」という言葉から出発して、具体的な美味いものに辿り着くのは難しい。一方で料理名を提示されて、それが好きか嫌いかを判断するのは割合簡単だ。
 このことから容易に導かれる1つのアイデアは日頃から美味いものの情報を蓄積しておき、有事の際に参照するというものだ。
 このような考えから出発した美味いものリストだが、早速問題にぶつかっている。それはどのような基準でリストに入れるかだ。もちろん美味さが基準となるのだが、先も述べたように美味いというのは多様な味わいをひっくるめて1つの言葉にしたものだから、1口に美味いといってもその内実はそれぞれ違う。そのためリストに入れるかどうかの普遍的な基準が作れず、美味いけどリストに入れるほどでも無いというようなケースや、これは明らかに美味いが何か自分の中でこれのリスト入りを妨げる気持ちがあるというようなよくわからないケースが出てくる。当初、このような問題に対しリストを作る序盤で悩むのはあまり得策ではないように思い、とりあえず少しでも美味いと思ったらガンガンリストに追加するという方針を取ろうと考えた。しかし実行には移していない。
 それは、今のリストの状態が非常に良い雰囲気だからだ。僕の求めていたリストにふさわしい、言われてみれば確かにこれは好きだというようなものが良い感じに集まったものになっている。ここに有象無象の美味い物を放り込んでしまいたくなかった。
 現在のいい感じのリストを構成する食べ物のリストインの理由はその時その時の「入れるべきか」「入れないべきか」の2択の結果によるもので、その判断の根拠は自分でも言語化できない感覚的なものだ。こういう雑な方法はいつかはガタが来るとは思うのだが今のところは上手くいっている。なにか問題が生じるまではこれで行こうと思う。
 最後に現在のリストを公開しておく。
・みかん
イカのワタ焼き
・ちんすこう

川の中の鳥

 今日は12時頃に起きた。前日の寝不足のために爆睡してしまった。空腹だったため昨日パン屋で買っておいたフォカッチャをレンジで温めて食べた。外は雨が降っていて、そのせいか少し頭がぼんやりとしていた。この状態で本を読んだりパソコンを見たりしても集中できないため、少し散歩することにした。
 雨はそれほど強くはなく、傘をさしていれば問題なく歩けた。目的地も定めず適当に歩いていると鴨川の近くに着いた。河川敷を見るとそれほどぬかるんでいなかったので、そこを歩くことにした。
 しばらく歩いていると川の中に1人の女性がいた。彼女の事を以下「カワ」と呼ぶことにする。川の水深は雨で多少増水しているとはいえ足首が浸かるぐらいの深さで特に危険は無い。カワの前方1m程のところに白い水鳥がいて、カワはその鳥を追いかけていた。鳥の大きさは体積で言うと10㎏の米袋ぐらい。そこそこ大きい。鳥はすぐにカワに捕まった。カワは鳥が動かないように体を抑えた。カワはそれからどうするわけでもなく体を抑え続けていた。しばらくの膠着状態の後カワは手を放し、鳥は逃げるようにカワから離れた。すると再びカワは鳥を追いかける。
 僕は河川敷を歩きながらこの光景を横目で見ていた。カワの行動が何を意図するものかが分からないため始終を見届けようと思ったが、僕が立ち止まって凝視し、もしそれにカワが気づいた場合カワの中に恥じらいや不安が生じて本来取りたかった行動を中止してしまうかもしれないと考えた。そこで僕は無関心な通行人を装うことにした。周りを見ると、カワの行動を見ている人が2人いた。1人は川の向こう岸にいて、もう1人は近くの橋の上から見下ろしていた。後者の人はカッパを着て、自転車にまたがったままカワを見ていたので「ジテンシャ」と呼ぶことにする。この2人は見るからにカワを凝視していたが、カワの方は特に周囲を気にする様子もなく淡々と鳥を追いかけていた。そのため今更僕が通行人を装っても意味が無いような気がしたが、念のためということでそうすることにした。通行人のフリをするには歩き続けなければいけないわけで、単に直進し続けていると通り過ぎてしまう。カワの近くにいる時間を少しでも長くするために、カワの近くを過ぎたあたりで河川敷から上がり近くにある橋を渡りながら様子をうかがうことにした。
 鳥はカワから逃げる途中少し飛ぶのだが、高度は水面からわずかに浮かび上がる程度で飛翔距離も2,3mほど。すぐに着水する。この様子からこの鳥は負傷しているのではないかとも思ったが、知識が乏しいために判断はつかない。カワと鳥との距離は常に2m未満ぐらいで、鳥が捕まるのは時間の問題だった。
 僕が河川敷を上るため少し目を離している間に鳥は川岸の斜面まで追い込まれ、そこで捕まっていた。しばらく膠着状態が続く。僕の歩行が橋の中腹に達する頃、同じ橋の上にいたジテンシャがカワに向けて声を上げる「大丈夫ですか!」。この「大丈夫ですか」がカワの行動の意図を理解した上での配慮なのか、不審な振舞いをするカワへの牽制なのかは分からない。カワはジテンシャの声に気づき何か言っているが聞こえない。川沿いの道路を走る車の走行音と水の流れる音が騒がしいためだ。かろうじて聞き取れる会話の断片を聞く限りではカワとジテンシャはあまり話がかみ合っていない様子だった。
 結局僕が橋を渡っている間に特に動きは無く、どうなったかは知らない。

儚いものの新しい例

 儚いという言葉がある。過去にこの言葉を会話で使った記憶はないし、他の人が使っているのを聞いた覚えもない。文章でもそこまで頻用されるものではないだろう。つまり、あまり用いられない言葉だと思うのだが、それでいて誰もが存在を知っていて、何となくではあるとしても意味を知っている言葉だと思う。また儚いという言葉は主として使用者の感情を表す言葉だろう。「○○は儚い」と言うとき、○○の性質を述べることよりも「○○に対して自分は儚いという感情を抱いている」と表明することに主眼があるように思う。
 では儚いという言葉がどういう感情を表すものかを思い出そうとすると結構難しい。それぞれの感情に対して明確な定義があるわけでは無いから、何らかの説明によって理解するというのは上手くいかない。こういうときに有効なのは自分が儚いと感じたエピソードを思い出して、感情を再体験することによって思い出すという方法だろう。
 この文章では僕にとって儚いと感じるエピソードを提示しようと思う。このエピソードは僕の個人的なものだが、恐らく多くの人も似たような経験をもっており、儚いと感じるものだと考えている。つまり、儚いという感情を思い出すためのエピソードのストックとして有用なものになるはずだ。
 そのエピソードの前に1つ述べておきたいことがある。「儚い」と聞くと多くの人は蝉(セミ)を思い出すのではないだろうか。少なくとも僕にとって「蝉」と「儚い」の2語は強く結びついている。しかし、いざ蝉のどこが儚いのかを考えるとすぐには出てこない。少し考えて「10年ぐらい地中にいるのに地上では1週間で死ぬところ」というのをかろうじてひねり出せる程度だ。つまり改めて考えるとそれほど蝉を儚いとは思えない。それなのに何故「儚いと言えば蝉」というような図式が僕の中にあるのかというと、恐らくこれまでに蝉を儚いものとして扱う記述を何度も見てきたためだ。つまり刷り込みによるものだろう。儚いという言葉を聞いたときに思わず蝉を思い浮かべてしまう人はそれが実質を伴うものか再考してみて欲しい。
 とはいえ蝉が不当に儚さの象徴の座を得ているというのは言い過ぎだとも感じる。一応蝉は儚さを感じさせうる性質は持っていると思う。そこに儚さを感じることができないのは、蝉に対する関心の薄さのためだろう。僕は下手をすればもう10年以上も蝉に意識を向けていない。もちろん毎年蝉の鳴き声は聞いているが、それを聞いても思うのはせいぜい「夏だな」という程度で、つまり夏の一側面として蝉を把握するに過ぎない。こうも印象が薄いと、改めて蝉の事を考えても出てくるのは昆虫であるとか、大まかな形だとかの漠然とした事柄のみで、特に感情の動きを伴うようなものは出てこない。それ故儚い・儚くないを決めるには材料不足で、どちらを選んでもしっくりこないということになる。
 蝉の話はこのくらいにして、儚さを感じるエピソードの提示に移る。これは同時に新たな儚さの象徴の提案でもある。その象徴の候補とはコンビニのおにぎりだ。コンビニのおにぎりが何故儚いのか。それは次のエピソードを通じてだ。

 ある朝、僕は昼食用にコンビニのおにぎりを買った。しかし昼は友人と食堂で食べることになったため、おにぎりは食べなかった。その後おにぎりの事を忘れ、夜に帰宅する。カバンを開けると、カバンの底にコンビニのビニール袋がある。それを取り出し袋を開くと、中からくたびれた様子のおにぎりが出てくる。背面の消費期限を確認すると17時に切れている。僕はたかが百数十円のために食べた後の時間を腹を壊さないかと不安になって過ごすのは割に合わないなどという現代っ子的な考えに基づき、おにぎりを食べないことにした。今朝陳列されたばかりのおにぎりが一昼夜を駆け抜け、今や「捨てる」という選択肢を僕に提示するだけの存在となっている。その姿に僕は儚さを感じた。

テンバイボウの男

 バイトへ向かうバスの中、通路をまたいで1列前の2人掛けの席に男2人組が座っていた。2人は友人同士らしく会話していた。あるとき片方の男が
「ほんとテンバイボウはクソ!」
と言い放った。この言葉だけ大音量だったため、それまでの会話に耳を傾けていた訳では無いがはっきりと聞こえた。ちなみに「テンバイボウ」のアクセントは「全体像」と同じ。
 僕は瞬時に分かった。この「テンバイボウ」とは「転売厨」のことだと。

 唐突だが僕が小学校高学年の頃の話をする。この頃、既にWindowsXPはリリースされていたと思うが、我が家ではまだWindows98が動いていた。この時代の多くの小学生が通った道だと思うが、当時僕はパソコンの最低限の使い方を覚えて、友人から教えてもらった「おもしろフラッシュ」や「フラッシュゲーム」、「WWA」などを楽しんでいた。それらを見ているうちフラッシュに出てくるキャラクターが2ちゃんねる発祥であることを知る。小学生の僕にとって2ちゃんねるは何かはよく分からないけどヤバい感じのするもので、下手なことをしたらパソコンにウイルスが入ったりするんじゃないかとか思いつつ、「2ちゃんねる」と検索し、びくびくしながら壺のロゴをクリックしたのを覚えている。2ちゃんねるに書き込んだ記憶は無いが、2ちゃんねるという掲示板群があって、そこにはAAや特有の用語などといった独自の文化があるということを知った。
 ところで当時の小学生は誰もがこれらの事を知っていたわけでは無い。パソコン自体は家庭に浸透していたが、子供が自由に使えない場合も普通にあったからだ。それ故当時の僕には「皆の知らない2ちゃんねる文化を自分は知っている」という優越感があり、それが推進力となって「2ちゃんねる用語集」なんかを熱心に覚えようとしていた。そうするうち「厨房」という言葉にぶつかる。これは勿論「ちゅうぼう」と読むが当時の僕は「だんぼう」と読んでいた。暖房と厨房を混同していたわけでは無いのだが何故だか最初に「だんぼう」と読んでしまい、それ以降修正の機会がなかったために結構長い間「だんぼう」と読んでいた。友人に対して「だんぼうはさあ・・・」などと口に出してまでいたのだが特に指摘されたこともなかった。恐らく友人は僕が何を言ってるのか分からなかったことだろう。「ちゅうぼう」という正しい読み方に気づいたのがいつなのかは明確に覚えていないが、あるときふと「これ『だんぼう』じゃなくて『ちゅうぼう』じゃん」と気づくというようなインパクトの薄い気づき方だったと思う。中坊を厨房にあえて誤変換しているだけなのだから意味を分かっていれば間違えるはずもないのだが、小学生の頭脳にはそんな道理は通じず「だんぼう」と読んで意味は「雑魚」とかそんな感じの言葉として適当に解釈していた。もちろん用語集には由来も含めて読みも意味も書いたあったはずなのだが。
 この間違いが起こった理由はひとえに「厨」の漢字の読みにくさによるものだろう。今でさえこの漢字を注視しても「ちゅう」と読むことを見いだせない。この漢字を読むことができる理由はこれが「厨房」の「厨」だからだ。日常に現れうる言葉で「厨」がつくのはのは唯一「厨房」だけではないだろうか。つまりこの漢字の読みは「厨房」を経由して覚えるものだと思うのだが、小学生の僕はそのファーストかつラストのステップである「厨房」を踏み外してしまった。

 そんな経験があったから「テンバイボウ」と聞いた途端に記憶がよみがえり「転売厨」のことだと確信した。この場合「厨」を読み間違えたのでは無く「房」をつけて「転売房」としてしまっている訳で、少し僕とは違うが、概ね同じようなミスと言えるだろう。僕以外でこの類のミスをした人を初めて見たが、これは広く起こっているミスなのだろうか。今では「○○厨」なる言葉はかなり広範に用いられているし、会話で使う人も結構いるため、読みを誤る可能性は低いような気がする。しかし一方で「厨房」という言葉はそれほど見ない。ということは単体では読むことの難しい「厨」のみで使われる場合が多くなった訳で、近しい人で会話にそういう言葉を使う人がいない場合には誤って読んでしまう可能性は高くなっているのかもしれない。
 そんなことを思いつつ一人バスの中、テンバイボウの男にシンパシーを感じていた。

ドリンクバーのバーの話

 先日サイゼリヤに行った。午前10時半頃に入店した。諸事情で朝に食事をとれなかったため朝昼兼用で食べるためだ。サラダとスパゲティを注文する。飲み物は水でいいと思ったため特に頼まない。料理が来るまでに水を飲もうとドリンクコーナーに取りに行く。前回サイゼリヤに来たのは年単位で前になる。その時はドリンクコーナーの水汲み器に「¥0」というような表記があったような気がするのだが、今回は無い。しばらく来ないうちに有料になったのだろうかと少し不安になるが、取り敢えずそのまま水を汲み席に戻る。店員に何か言われたら追加でドリンクバーを注文しようと少し身構えていたが、料理を持ってきたときに何も言われなかったので安心する。食事をしている最中にメニューに水の料金について書いてあるかもしれないと思い、ドリンクバーのあたりを詳しく見るが分からない。
 こんな風にドリンクバーのことを気に掛けているうち、ドリンクバーの「バー」とは何かという疑問にぶつかった。バーという言葉の意味で僕が知っているものを頭の中で探して出てきたのは
・飲み屋を意味するバー
・アンダーバー、ホームランバーなどの棒を意味するバー
の2つだ。このうちでドリンクバーはどっちのバーかを考えたところ、どちらもしっくりは来なかったのだが前者の方が飲み物に関連していてありえそうだと感じた。それでは飲み屋のバーの意味だとして、何故ドリンク飲み放題サービスがそのように呼ばれるのかが問題になる。
 ここまで考えたところで、この○○放題という形式には定着している呼び名があったような気がした。少し考えたところ無事思い出した。それは「バイキング」だ。思い出した直後は何故定着しているバイキングという言葉を使わないのかと疑問に思ったが、「ドリンク」という言葉と組み合わせて「ドリンクバイキング」と心の中で唱えた途端にその理由が分かった。「ドリンクバイキング」。こう言われると僕は豪勢なものを想像してしまう。バイキング形式は必ずしも高級とは限らないので、この辺は僕の感覚でそれが平均的なものかは分からないが、少なくとも下図のような甘くて安い飲み物を出す四角い機械を使う権利に「バイキング」の名は荷が重いのではないか。
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サイゼリヤのドリンクバーがドリンクバイキングなどと名付けられていたら僕は失笑してしまう。
 話を戻して何故「バー」と呼ぶのかだ。これも少し考えたところ、尤もらしい考えが浮かんだ。それはあの機械が飲み物を提供するバーの機能を果たしているからドリンクバーと呼んでいるというものだ。つまりあの機械、若しくはあの機械の置いてある場所の名称がドリンクバーだということだ。しかし、この考えによればメニューにあるべきは「ドリンクバー」ではなく「ドリンクバー利用権」のはずだ。このときふと、これはあれではないかと思った。あれというのは世でしばしばある「名称を省略する際に本質的な部分を省略してしまう現象」のことだ。スーパーマーケットがスーパーと呼ばれたり、フランクフルト・ソーセージがフランクフルトと呼ばれたりするのが典型例だ。つまり「ドリンクバー利用権」では長いとか堅苦しいとかそんなような理由で略された結果「ドリンクバー」となったのではないか。この理由で僕は納得した。
 とはいえこれはいくつもの仮定に基づいた推論に過ぎない。しかしこの結論を支持する材料を先ほど見つけた。それはまさにサイゼリヤのメニューの中にある。サイゼリヤのメニューはWeb上でも見られる。
www.saizeriya.co.jp

このグランドメニューのドリンクバーの載っているページを見るのだが、日本語を見ても分からない。英語の部分にそれはある。引用する。

Please help yourself to self-service drinks at Drink Bar(free re-fills)

文末の"at Drink Bar"。これは間違いなくドリンクバーが権利ではなく機械、または場所を表す言葉であることを示している。