文章の書き方について

 僕は常々うまく文章が書けるようになりたいと思っている。うまく書けている文章とは以下の何点の条件を満たすものである、というような定義が自分の中にあるわけではないけれど、これを満たした文章を書けるようになりたいという条件はいくつも思いつく。その中でも優先的に満たされるべきだと考えている条件がある。それは、以下の4点だ。

  1. 文章中に現れる単語の意味が明確であること
  2. 論理的に書かれている部分では仮定が明記されていること
  3. 論理的に書かれている部分では矛盾がないこと
  4. 論理的に飛躍がある部分には非論理的であることが明記されていること

 このように条件を列挙したところで、それらの条件に現れる言葉の意味を明確にしなくては、それこそ「文章中に現れる単語の意味が明確である」という条件自体が不明確となってしまう。ただ当然のことながら、ある単語の意味を説明するには他の文章が必要で、さらにその説明内に現れる単語の説明という風に繰り返していてはいつまでも終わらない。だから明確という単語の意味を文章で必要十分に説明することは不可能だ。しかし、例えば「昨日は雨だった」という文章の意味、それぞれの単語の意味は僕には分かる。このように、文を構成する単語の説明は不可能であっても分かったと思える。だから、「文章中に現れる単語の意味が明確である」というときの明確という言葉は、「読み手が文章において現れる単語の意味が分かったと感じる」という意味だ。こう言うと、明確かどうかは読み手に委ねられることになり書き手はどうしようもないという話になるが、それは全くその通りだ。ただ、書き手は自らの書く文章を読むことができるので読み手でもあり、それも文章を理解しているかどうかを書き手が知ることができる唯一の読み手だ。だからまずは、僕の書く文章に現れる単語が僕にとって分かるような文章を書けるようになることがうまい文章を書くことの第一歩だと考えている。4点挙げた条件のうち2点目以降の論理的というのは記号論理学としてという意味で用いている。特に2点目以降の条件に現れる単語の意味で不明瞭な部分はないだろう。

 僕がこのようにうまい文章を書けるようになりたいと思うのは自分の書く文章が分かりにくいと思うからだ。例えば僕が過去に書いたこの記事
映画 ヒーローマニア 生活 感想1 - アドレナリン
は書いている最中から自分でも、文章中で用いている「展開」「ストーリー」「雑」などの単語の意味が不明瞭だし、批判としてご都合主義やリアリティの無さ等を指摘しているが、それが何故批判として成立しうるかを説明していないため言葉足らずだと感じていた。冒頭に言葉の定義を列挙したり、ご都合主義はどのような場合には批判の対象となりうるかを考えようとも思ったが、うまくまとめることができず書けなかった。

 今後は上に挙げた4条件を満たすような文章の書き方を考えたい。また、久々に文章を書いたのでこれだけの文章を書くのにも相当な時間(3時間ほど)がかかってしまった。時間がかかるとどうしても疲れて、書きたいと考えていたことを端折ることになってしまう。今回の文章でも2点目以降の条件の内容を例示を交えて明確にしたかったけれど止めた。書き方についての考えがまとまらなくても、文章を定期的に書き、慣れることが必要だろうか。

映画 ヒーローマニア 生活 感想1

 映画『ヒーローマニア』を見た。原作である福満しげゆきの『生活』は以前に読んだことがあり、面白かったので、映画化されるなら是非観たいと思い観に行った。
 それで、観た感想だけれども、面白くなかった。上映中にいつ終わるのかと待ち遠しくなるほどだった。面白いと思えなかった理由について考えたところ、
・ストーリーの粗さ
・ギャグのセンス
・ストーリーの改変
という3点思い当たった。一つずつ見ていく。以下は映画の内容に踏み込んで記述するので、ネタバレを気にする人は注意。
長くなったので、まず1点目の「ストーリーの粗さ」についてのみ投稿する。

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評論を学び始めて

 評論を学ぶというカテゴリを作り、文芸評論を学び始めた。これまで全く学んだことのないジャンルなので学び方がわからない。とりあえず、頭から読みつつ内容をまとめて、その都度気になる点を書き留めるという方法をとることにした。慣れないからか1つの項目をまとめるのにもやたらと時間がかかるし、まとめてみたところで明晰に理解できたという感じもあまりない。僕の目的は漫画を論じることにある。面白いと感じる漫画に対し、ただ面白いと言う以上のことをしたい。まだ『批評理論入門』の内容をまとめ始めたばかりで知識もほとんどないのだが、現時点で『批評理論入門』から感じたことを記しておく。

 漠然とした言い方ではあるが、文章が1つの方法で表現されているとき、他の方法で表現された時とは違う効果を持つ。だから、文章が提示されたとき他にありえた表現の形式を想定することで、その文章を選択されたものであると考え、比較することができる。もちろん適切な比較の基準が取れるとは限らないのだけど、比較なしでは何もできないことを考えれば状況はかなり進歩している。

 当然これまでだって、何故これが面白いのかと考えているときにこうじゃなくて、こうだから面白い、と考えることは自然にしていたはずである。しかし、これまでは与えられた対象の中から比較の基準を見出していたけれども、この方法を明確に意識することで事前に比較のレパートリーを貯めておいて、それを出会った対象に比較基準として与えるということができるようになる。

 一方で批評理論にはあまりいい印象を持っていない。まだまとめてないうちから、こういうことを言うのは良くないのだけれども、『批評理論入門』の2章で述べられている批評理論全般に対し、なんかそれっぽいことを言っているだけなのではないかと感じた。『批評理論入門』に小説には複数の観点から見た際に相反するような解釈を導くこともあるというようなことが書かれていた。別にそれはいい。互いに相反する解釈があるからどちらかが間違っているか、どちらも間違っているか、もしくは文章がそもそも矛盾しているかのどれかだ、とか思っているわけではない。しかし、そのような解釈が正当性をもつという根拠がどこにあるのか。正当性という言い方は良くないかもしれない。正しい解釈を担保するものなんてないだろうから。こんな風に解釈できるんですよ、と言いたいのなら言えばいいと思う。そして、明らかにその解釈が破綻していない限りはその解釈が批判される筋合いはない。しかし同時に、その解釈を認める筋合いも無いのだ。なぜならそれが、空想の産物以上のものとする理由がどこにもないからだ。

 こう書いて改めて感じたのは、僕がしたいのは勝手な基準を作って面白い、面白くないを自分の中で決めたいということではなくて、他の人に、自分の感じている面白さを独りよがりな論理ではなく、対話可能な方法で伝えたいということだ。

フランケンシュタインを読む1

 光文社古典新訳文庫の小林章夫訳『フランケンシュタイン』と中公新書の廣野由美子『批評理論入門』を読んだ。前者は8日の深夜から朝にかけて読み、後者は9日の昼頃から読んだ。どちらも読み通しただけであり、内容がまだあまり頭に入っていないような気がするので、後者の本に沿って読みなおしていくこととする。項目ごとに要約とそれに対する意見という流れでまとめることとする。

 

 第1章は「小説技法篇」である。この章では小説の時間の進み方や語り手など形式的な側面について論じる部分である。

 

第1項目「冒頭」

 『フランケンシュタイン』は北極探検に向かうウォルトンから姉への手紙という形で始まる。続けて3通の計4通の手紙が記され、その後第1章が始まる。いきなり1章から始めるのではなく、手紙から始めることは、物語の設定(登場人物の名前・正確、時、場所など)を頭に入れる準備期間を設けることとなり、読者の負担を軽くしたり、読者がその後の展開に関して抱く可能性のある疑問を先回りして潰したりすることができる。

 

 冒頭についての議論は第2項目の「ストーリーとプロット」に含まれるものだと思う。プロットによる効果の具体例として扱う方が自然だと感じる。

 確かに、いきなりヴィクターの語りから始めてしまったのでは、ヴィクターが語っていることは想像されるけれども、どのような状況下で語っているのかはわからない。晩年に自分の人生を回想しているのかもしれない。しかし、手紙のおかげでどのような状況であるのかを把握することが可能になっている。また、怪物の作り方の説明を回避する理由をここで提示することができている。

 

第2項目「ストーリーとプロット」

 ストーリー・・・出来事を時間順に並べたもの

 プロット・・・物語の語られる順に出来事を並べたもの

 プロットは出来事の因果関係に重点をおいて作られる。例えば、2人の人間が同じ時間軸で行動しているときに時間の区切りごとにそれぞれの行動を記すのではなく、片方ずつをまとめて記すといった感じである。

 プロットはいつも因果関係を考慮して作られるとは限らず、謎やサスペンスを生む装置としても使われる。例えば、ウィリアムの殺害からジャスティ―ヌの処刑までの流れは怪物の仕業によるものかが読者にとって確定しない状態が続くので、それによって謎が生まれ、緊張が保たれたまま物語を進めることができる。

  

 プロットは因果関係のある出来事をひとまとめにして物語を整然とさせることもできるし、特殊な効果を生み出すことができるというのは当然といえば当然だが感心した。物語が提示されたとき、それが時系列に並んでいない場合にそれによってどのような効果が生まれているか常に注視すべきだろう。

漫画を論じたい

 久しぶりに文章を書く。前回このブログに文章を投稿したのは7、8カ月も前になる。以前に投稿をした文章を改めて読んだら、恥ずかしくなって削除したくなるものかと思ったらそんなことはなかった。インデントも段落分けもしていないので読みにくくはあるが、書いてある内容は今でも理解できたし、当時の自分の無気力感の原因にしっかりと向き合っていて、むしろ感心した。ただ、解決案が具体化されておらず、そのため解決に向かっての試みもなされなかったのが残念なところではある。

 今回改めてまたこのブログを更新しようと思った理由は、漫画について論じたいと思うからだ。僕は平方イコルスンという漫画家の漫画がすごく好きで、初めて読んだ時からなんかすごいとは思っているのだけれど、そのすごさや面白さをどこに感じているのかがわからないのだ。だから、何とかして自分が面白いと感じている理由を解明したい。

 解明とはいっても、面白さの原理みたいなものを定めてそれに則って面白さを説明しようというわけではない。というかそんなことはできないだろう。じゃあ、どのような意味で解明しようといっているのかといえば、正直なところ自分でもよくわからない。

 だから、ひとまずのところ直接的な解明への試みはできないのだけれど、それでも解明の手掛かりになるかもしれないことをすることはできると思っている。それは、文学や漫画の評論法を学ぶことで、それによって漫画を何らかの意味で分析する方法を身に着け、漫画の面白さについて今よりも豊富な方法や語彙をもって語るようになれるのではないかと期待している。

 僕の今持っている文芸評論の知識はほぼ無い。以前、何らかの動機で小説を読もうと思ったことがあり、その際に、カフカの『変身』とか有名な本をいくつかブックオフで買って読んだのだが、読み終えても何というかただ読み終えたという感じでどうしたらいいか分からず困惑した覚えがある。で、その時に『フランケンシュタイン』と中公新書から出ている『フランケンシュタイン』を実例に批評の方法を説明する本を買ったのだが、買うころには小説を読む気力も尽きており結局読まずじまいになっているものがある。それをまず読むこととしたい。そして、それを読んで感じたことをここに記す、ということを試みる。

易きに流れる

前から書いているようにここ数年ほど調子が悪いというか、情熱をもって取り組めることがない。とはいえ、一時的にやる気が出ることはある。明日までにレポートを書かなくてはならなかったり、ゼミの発表が迫っていたりすればそれに対して、集中して取り組むことはある。そしてその中で勉強する楽しさを感じることはある。しかし、これをもっと知りたいと漠然と思う事はあっても、知らずにはいられないという事はない。それは何故かと考えてみれば、僕の「何故知りたいのかの理由を求めて結局答えが得られず、自分の知りたさに疑念を持ってしまう」という性向も勿論関係していることは間違いないが、もう僕の中で理由を求めすぎてもどこへも辿り着けないという事はある程度納得しているため、それが大きな要因ではない。僕がいま思うのは、何かを学ぶことは大変だからなのではないかと思う。僕にとって「自分はこれをなすべきだ」というような使命のようなものはないし、そういうものにできるだけ囚われないようにしようと思っている。つまり、自分の中に特権的な地位をもつ信念をもたないようにしている。「自分の中に特権的な地位を持つ信念をもたないようにする」という特権的な地位を持つ信念を持っているといってもいい。このような信念のもとでは自分のすべき事というのは意味を持たず、したい事が重大な意味を持つ。したい事が様々あって、その中でいくつかが実際になされるわけだ。したい事というのは例えば、漫画を読みたい、コーヒーを飲みたい、カレーを食べたいなどといったことから、確率論を勉強したい、コーヒーのいれ方による味の変化を調べたい、カレーのスパイスの量や炒め、煮込み具合による味の変化を調べたいなどといったものがある。その中で僕が最近しているのは漫画を読むとか、寝るとかが主で、勉強もたまにするといった感じだ。なぜそうなっているのかといえば、漫画を読むのは簡単でしかも楽しいからだろう。寝るのも簡単だ。数学を学ぶのも大きな目的を持って取り組むのは難しいにしても、様々な理論を理解した時は驚きがあって楽しいのだが、いかんせん理解するのには骨が折れる。苦労した分達成感も大きいのかというとそういうわけでもない。達成感や楽しみというものは比較してこっちの方が大きいだとか言えるようなものでは無いだろう。しかし、何かを学ぶことはそれまでにできなかったことを可能にしたり、新しい視点を獲得することができる。そして、また別の知りたい事へとつながっていく。漫画をただの娯楽に貶めるわけではないが、少なくとも僕は漫画はほぼ娯楽のみを目的として読んでいて、一時的な楽しみのために消費しているといっていいだろう。少しふざけて言えば、学ぶことは持続可能な楽しみなのかもしれない。僕は学ぶことを通してより楽しみの幅を広げていくべきなのだろう。漫画とか消費可能な娯楽は膨大にあって、消費よりも生産の方が早いように見える。しかし、実際自分の好みに合った娯楽というのはそれほど多くないし、それを手に入れるにはコストがかかり、娯楽にふけってばかりというのはそもそも限界がある。また、現実的な観点から見ても、就職し働くうえで専門知識などを増やしておかないとまずい。また、身の回りにある手に届く限りの娯楽を消費しつくせば自然と学ぶことに意思が向くかといえば、経験上そうではないようだ。つまり、意識的に学ぶという選択をしなくては学べないらしい。とはいえ、何かを学び取る事の労力に怯えて、学んでいないというわけでもないような気がする。そもそも、知りたいと思う意思が弱いというのも否定できない。今日、自分の中で象徴的な出来事として、今自分がパッと死ぬとしても、それを嫌だと思う積極的な理由が見いだせなかったことだ。家族・親戚がつらい思いをするだろうだとか、友人は気分が悪いだろうだとかは思うのだけれど、自分がこれをできなくて悔しいとか、どうかこれが達成できるまでは生きたかった、というような願望が見つけられなかった。勿論これをしたいというのはあるのだけれど、結局のところ「まあいいか」といって手を放せるような願望しかなかった。なんだか中二病的で少し恥ずかしいのだが、自分の無気力もここまで来たかという感じだ。しかし、別に死のうとは全く思わない。特に理由はわからないが。今の生活が、単位取得などのことを直視しなければそれほど苦しいことのある生活では無いからだろう。特にお金に困っているわけでもなく、人間関係に不和があるわけでもない。しかし、このまま今の生活を続ければ社会に投げ出され、不快な生活が待っているかもしれない。そうなって苦しい生活が続けば自分は無責任に死を選んでしまうかもしれない。とはいえ、このような将来に対する不安が今の自分を動かす原動力にならないことは理解している。むしろ憂鬱になって行動を阻害するぐらいだろう。だから、僕は学ぶことをもっと生活に組み込んでいきたいのだ。

 

少し話は変わるが、学ぶことがうまくいかない理由としていくつかいくつか思い当たる理由がある。それは、僕の学び方、つまり、技術的な問題だ。恥ずかしながら僕の学び方というのは全く洗練されていない。僕は数学を専攻しているので数学の学び方になるが、大抵は、テキストを決めてそれの興味ある部分を読むといった感じだ。その時、証明を読んだり、よくわからない部分は丁寧にノートに書いたりするが、その時ひとまずわかれば、OKとして次に進んでいる。ノートはまとめなどを書くことはなくメモ用紙としてしか使っていない。もちろん定理の証明の論理が追えればよいというわけではなく、なぜこのような論証をするのかなども場合によっては深く考える。以上が僕の数学の学び方の大体である。僕はこれまでにテキストを読み始めて読み進めていくのだが途中でやめてしまうことが多かった。それが何故かという事なのだが理由は多くの場合、わからない部分があってそこを考えても考えてもわからず、嫌になってしまうという事が多かった。しかもそのような個所が重要であるかどうかに関わらず。つまり、僕は大局観をもって学べていないのが問題なのではないかと感じている。わからない部分をわからないままでとりあえず先にある目的を目指す。というのが必要なのだろう。もちろんわからない個所は後で戻れるように印をつけておいて。その上で、大局観を持つというのも難しい。それは大体の数学のテキストは様々な理論の基本的な定理を証明することを目的としている。それで、様々な概念を定義しながら主定理の証明の準備をしていくのだが、その準備は主定理が証明されれば不要となる梯子ではなくて、それらの準備と主定理を含めた総体こそが、理論の理解を可能にするように思う。もっと雑に言えば、様々な結果の全体から定義した概念のイメージのようなものが浮かび上がって、それを理解することが理論を理解するということということだ。だから、大局観といってもこの主定理の証明にはこの命題とこの命題が使われていてみたいなことを考えて、ロードマップみたいなのを作って、証明を読んで論理が追えても仕方ないような気がするのだ。論理的に関連していなくても、イメージを得る際に関係している可能性があるのだから。つまり、大局観はある程度学んでからでないと得られないのだ。だから、大局観というよりももっと雑に、ある程度の時間考えてわかんなかったら次に行くぐらいの粗い方針でいいのかもしれない。

数学を学ぶモチベーション

1つ前の記事で、ここ1,2年で数学への関心が薄れてしまった。と書いた。改めて考えてみると、薄れてしまったというのは不正確だったように思う。というのは、元々明確な形で関心を持っていたわけではなかったように思うからだ。でも、数学を勉強していた。講義にも出ていたし、テキストを自分で読んだりもしていた。もちろん今でもテキストは読んでいるが。しかし、費やす時間は明らかに減っている。だから、問うべきなのは、「何故、今数学に熱中できないのか?もしくは、何故過去にはより勉強できたのか?」ということだろう。まず、「何故過去にはより勉強ができたのか」について考える。1回生の時には線型代数微積を学んだ。線型代数ではいろいろな概念を取り入れながら、様々な結果の証明を読んだ。結果として、連立1次方程式は解けるようになったし、行列のジョルダン標準形を求めることもできるようになった。これらは確かに価値あることだと今でも思う。線型代数の本を一冊読み終わったら、次は群とか可換環とか加群を学ぼうと思った。微積が大体わかったら次はルベーグ積分を学んだ。でも、ここに自分のモチベーションはあまりなかった。なんとなくこれの次はこれを学ぶことになっている。みたいな空気に従ったに過ぎない。こんな風に次々とサーブされる理論を受け取って消化するという運動しかしてこなかったのだ。つまり、「何故過去にはより勉強ができたのか」という問いの答えは、この運動に特に疑問を感じてこなかったというものになる。しかし、この運動をいつまでも続けるのは危険であると認識するようになった。何故なら、この運動は自分が何かを知りたいというモチベーションが無くても続けることができてしまうからだ。僕はこの運動を続けていって得ることができるのは既に人によって築かれた理論をフォローする力だけだろうと思うし、そもそもこの運動を続けていくことに嫌気がさしたのだ。何故なら、そこにモチベーションがないのだから。だから「何故今数学に熱中できないのか」という問いの答えは、学び取りたい目標がないからというものになる。もちろん、自分の知りたい目標を設定するのにさえ知識は必要であるから、ある程度までこの運動は必要だろう。しかし、どこかで自らの目標を設定しなくてはならない。これまで僕は次々と提示される教程の中から面白そうなものを選んで学ぶという事をしてきたと思う。しかし、いつかは目標を設定し、教程を利用するにしても目標を達成するためのステップとして利用するようでなくてはならないだろう。ここにきて、明快な方針が立てられたような気がする。それは次のようである。

 

自分の今持っている知識で理解したい対象が存在するならばそれを理解するために必要な知識を仕入れながら進めばよい。もし、理解したい対象を見つけられないのなら、とりあえず、基本的と思われる対象を学び、目標を立てる助けとする。

 

こんな風に大げさに書くことでもない結論となった。しかし、記述することを通して僕は考えを整理し、一応の結論を得ることができた。つまり、僕にとってこの文章を書くことは意味があった。読む人にとって意味があるかは別として。しかし、当然次に来る問いとして、今、自分に理解したい対象があるか、ないとすれば、なにを学ぶかというものだろう。これはまた次に考える。