良いお年を

 少し前に忘年会という名目で友人らと寿司を食べた。店を出た後にこのまま帰るのもあれだろうと、近くの店に入るなり何かしようという話になったが良い案は出ない。食欲の赴くまま食べ続けたために皆ほとんど満腹状態で、ファミレスや喫茶店といった飲食関係はなし。

 そのうち近くのラウンドワンに行くのはどうかと声が上がる。行って何をするのだと問うと、それへの答えはない。決めかねて無為な時間を過ごすうち、結局ひとまずラウンドワンへ向かう流れになった。向かう道中でボウリングでもやるかと誰かが言いだす。流石に無為が過ぎるだろうと感じつつも、現状漫然とラウンドワンに向っていることを考えれば、むしろ無為を噛みしめるためにはボウリングほどふさわしいものはないという達観したような考えが浮かび、消極的な同意を示しつつ足を進めた。

 

 ボウリングなど何年振りかわからない。球を選び、コツをスマホで調べ、ゲームを始める。一投毎に動きを意識し、少しずつ想像と実際の動きを擦り合わせる。この作業はかつてやっていた円盤投げに通ずるものがあり楽しい。筋力が無いと思うような動きができないところも似ている。他人の投球の結果に逐一リアクションするのも、軽薄と言いうるものではあるが、しかしやってみれば案外悪く無いものだった。

 総じてかなり楽しんだ。事前に抱いていた気取った考えは打ち砕かれ、ボウリングそれ自体を満喫した。もっとボウリングのようなことをやっていかなくてはならないとさえ感じた。

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 週に一回会う人がいて、今日は今年最後の機会だった。別れ際に今年はこれで最後ですねという会話をし、それじゃと足を踏み出そうというときに相手がよいお年をと言った。そういえばこういうときに言う言葉だよなと思いつつ、こちらもよいお年をと返した。

 この言葉は自分からは言わない。何というか「髪切った?」とか「平成最後の~」とかの言葉と同じで、言っても言わなくても世界が一切の変更を受けない言葉のような気がするからだ。

 しかし実際言ってみると、存外悪くない。言うや否や自分の中に今年ももう終わるのだなという言葉のままそれ以上も以下もない感情が芽生えて、しかしそれは心地いいものだった。もっとこういうことを言っていかなくてはならない。