儚いものの新しい例

 儚いという言葉がある。過去にこの言葉を会話で使った記憶はないし、他の人が使っているのを聞いた覚えもない。文章でもそこまで頻用されるものではないだろう。つまり、あまり用いられない言葉だと思うのだが、それでいて誰もが存在を知っていて、何となくではあるとしても意味を知っている言葉だと思う。また儚いという言葉は主として使用者の感情を表す言葉だろう。「○○は儚い」と言うとき、○○の性質を述べることよりも「○○に対して自分は儚いという感情を抱いている」と表明することに主眼があるように思う。
 では儚いという言葉がどういう感情を表すものかを思い出そうとすると結構難しい。それぞれの感情に対して明確な定義があるわけでは無いから、何らかの説明によって理解するというのは上手くいかない。こういうときに有効なのは自分が儚いと感じたエピソードを思い出して、感情を再体験することによって思い出すという方法だろう。
 この文章では僕にとって儚いと感じるエピソードを提示しようと思う。このエピソードは僕の個人的なものだが、恐らく多くの人も似たような経験をもっており、儚いと感じるものだと考えている。つまり、儚いという感情を思い出すためのエピソードのストックとして有用なものになるはずだ。
 そのエピソードの前に1つ述べておきたいことがある。「儚い」と聞くと多くの人は蝉(セミ)を思い出すのではないだろうか。少なくとも僕にとって「蝉」と「儚い」の2語は強く結びついている。しかし、いざ蝉のどこが儚いのかを考えるとすぐには出てこない。少し考えて「10年ぐらい地中にいるのに地上では1週間で死ぬところ」というのをかろうじてひねり出せる程度だ。つまり改めて考えるとそれほど蝉を儚いとは思えない。それなのに何故「儚いと言えば蝉」というような図式が僕の中にあるのかというと、恐らくこれまでに蝉を儚いものとして扱う記述を何度も見てきたためだ。つまり刷り込みによるものだろう。儚いという言葉を聞いたときに思わず蝉を思い浮かべてしまう人はそれが実質を伴うものか再考してみて欲しい。
 とはいえ蝉が不当に儚さの象徴の座を得ているというのは言い過ぎだとも感じる。一応蝉は儚さを感じさせうる性質は持っていると思う。そこに儚さを感じることができないのは、蝉に対する関心の薄さのためだろう。僕は下手をすればもう10年以上も蝉に意識を向けていない。もちろん毎年蝉の鳴き声は聞いているが、それを聞いても思うのはせいぜい「夏だな」という程度で、つまり夏の一側面として蝉を把握するに過ぎない。こうも印象が薄いと、改めて蝉の事を考えても出てくるのは昆虫であるとか、大まかな形だとかの漠然とした事柄のみで、特に感情の動きを伴うようなものは出てこない。それ故儚い・儚くないを決めるには材料不足で、どちらを選んでもしっくりこないということになる。
 蝉の話はこのくらいにして、儚さを感じるエピソードの提示に移る。これは同時に新たな儚さの象徴の提案でもある。その象徴の候補とはコンビニのおにぎりだ。コンビニのおにぎりが何故儚いのか。それは次のエピソードを通じてだ。

 ある朝、僕は昼食用にコンビニのおにぎりを買った。しかし昼は友人と食堂で食べることになったため、おにぎりは食べなかった。その後おにぎりの事を忘れ、夜に帰宅する。カバンを開けると、カバンの底にコンビニのビニール袋がある。それを取り出し袋を開くと、中からくたびれた様子のおにぎりが出てくる。背面の消費期限を確認すると17時に切れている。僕はたかが百数十円のために食べた後の時間を腹を壊さないかと不安になって過ごすのは割に合わないなどという現代っ子的な考えに基づき、おにぎりを食べないことにした。今朝陳列されたばかりのおにぎりが一昼夜を駆け抜け、今や「捨てる」という選択肢を僕に提示するだけの存在となっている。その姿に僕は儚さを感じた。