テンバイボウの男

 バイトへ向かうバスの中、通路をまたいで1列前の2人掛けの席に男2人組が座っていた。2人は友人同士らしく会話していた。あるとき片方の男が
「ほんとテンバイボウはクソ!」
と言い放った。この言葉だけ大音量だったため、それまでの会話に耳を傾けていた訳では無いがはっきりと聞こえた。ちなみに「テンバイボウ」のアクセントは「全体像」と同じ。
 僕は瞬時に分かった。この「テンバイボウ」とは「転売厨」のことだと。

 唐突だが僕が小学校高学年の頃の話をする。この頃、既にWindowsXPはリリースされていたと思うが、我が家ではまだWindows98が動いていた。この時代の多くの小学生が通った道だと思うが、当時僕はパソコンの最低限の使い方を覚えて、友人から教えてもらった「おもしろフラッシュ」や「フラッシュゲーム」、「WWA」などを楽しんでいた。それらを見ているうちフラッシュに出てくるキャラクターが2ちゃんねる発祥であることを知る。当時2ちゃんねるは小学生の僕にとって非常にヤバい感じのするもので、下手なことをしたらパソコンにウイルスが入ったりするんじゃないかとか思いつつ、びくびくしながら壺のロゴをクリックしたのを覚えている。2ちゃんねるに書き込んだ記憶は無いが、2ちゃんねるという掲示板群があって、そこにはAAや特有の用語などといった独自の文化があるということを知った。
 ところで当時の小学生は誰もがこれらの事を知っていたわけでは無い。パソコン自体は家庭に浸透していたが、子供が自由に使えない場合も普通にあったからだ。それ故当時の僕には「皆の知らない2ちゃんねる文化を自分は知っている」という優越感があり、それが推進力となって「2ちゃんねる用語集」なんかを熱心に覚えようとしていた。そうするうち「厨房」という言葉にぶつかる。これは勿論「ちゅうぼう」と読むが当時の僕は「だんぼう」と読んでいた。暖房と厨房を混同していたわけでは無いのだが何故だか最初に「だんぼう」と読んでしまい、それ以降修正の機会がなかったために結構長い間「だんぼう」と読んでいた。友人に対して「だんぼうはさあ・・・」などと口に出してまでいたのだが特に指摘されたこともなかった。恐らく友人は僕が何を言ってるのか分からなかったことだろう。「ちゅうぼう」という正しい読み方に気づいたのがいつなのかは明確に覚えていないが、あるときふと「これ『だんぼう』じゃなくて『ちゅうぼう』じゃん」と気づくというようなインパクトの薄い気づき方だったと思う。中坊を厨房にあえて誤変換しているだけなのだから意味を分かっていれば間違えるはずもないのだが、小学生の頭脳にはそんな道理は通じず「だんぼう」と読んで意味は「雑魚」とかそんな感じの言葉として適当に解釈していた。もちろん用語集には由来も含めて読みも意味も書いたあったはずなのだが。
 この間違いが起こった理由はひとえに「厨」の漢字の読みにくさによるものだろう。今でさえこの漢字を注視しても「ちゅう」と読むことを見いだせない。この漢字を読むことができる理由はこれが「厨房」の「厨」だからだ。日常に現れうる言葉で「厨」がつくのはのは唯一「厨房」だけではないだろうか。つまりこの漢字の読みは「厨房」を経由して習得するものだと思うのだが、小学生の僕はそのファーストかつラストのステップである「厨房」を踏み外してしまった。

 そんな経験があったから「テンバイボウ」と聞いた途端に記憶がよみがえり「転売厨」のことだと確信した。僕以外で似たようなミスをした人を初めて見たが、これは広く起こっているミスなのだろうか。ただ、今では「○○厨」なる言葉はかなり広範に用いられているし、会話で使う人も結構いるため、読みを誤る可能性は低いような気がする。しかし一方で「厨房」という言葉はそれほど見ない。ということは単体では読むことの難しい「厨」のみで使われる場合が多くなった訳で、近しい人で会話にそういう言葉を使う人がいない場合には誤って読んでしまう可能性は高くなっているのかもしれない。
 そんなことを思いつつ一人バスの中、テンバイボウの男にシンパシーを感じていた。