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易きに流れる

雑記

前から書いているようにここ数年ほど調子が悪いというか、情熱をもって取り組めることがない。とはいえ、一時的にやる気が出ることはある。明日までにレポートを書かなくてはならなかったり、ゼミの発表が迫っていたりすればそれに対して、集中して取り組むことはある。そしてその中で勉強する楽しさを感じることはある。しかし、これをもっと知りたいと漠然と思う事はあっても、知らずにはいられないという事はない。それは何故かと考えてみれば、僕の「何故知りたいのかの理由を求めて結局答えが得られず、自分の知りたさに疑念を持ってしまう」という性向も勿論関係していることは間違いないが、もう僕の中で理由を求めすぎてもどこへも辿り着けないという事はある程度納得しているため、それが大きな要因ではない。僕がいま思うのは、何かを学ぶことは大変だからなのではないかと思う。僕にとって「自分はこれをなすべきだ」というような使命のようなものはないし、そういうものにできるだけ囚われないようにしようと思っている。つまり、自分の中に特権的な地位をもつ信念をもたないようにしている。「自分の中に特権的な地位を持つ信念をもたないようにする」という特権的な地位を持つ信念を持っているといってもいい。このような信念のもとでは自分のすべき事というのは意味を持たず、したい事が重大な意味を持つ。したい事が様々あって、その中でいくつかが実際になされるわけだ。したい事というのは例えば、漫画を読みたい、コーヒーを飲みたい、カレーを食べたいなどといったことから、確率論を勉強したい、コーヒーのいれ方による味の変化を調べたい、カレーのスパイスの量や炒め、煮込み具合による味の変化を調べたいなどといったものがある。その中で僕が最近しているのは漫画を読むとか、寝るとかが主で、勉強もたまにするといった感じだ。なぜそうなっているのかといえば、漫画を読むのは簡単でしかも楽しいからだろう。寝るのも簡単だ。数学を学ぶのも大きな目的を持って取り組むのは難しいにしても、様々な理論を理解した時は驚きがあって楽しいのだが、いかんせん理解するのには骨が折れる。苦労した分達成感も大きいのかというとそういうわけでもない。達成感や楽しみというものは比較してこっちの方が大きいだとか言えるようなものでは無いだろう。しかし、何かを学ぶことはそれまでにできなかったことを可能にしたり、新しい視点を獲得することができる。そして、また別の知りたい事へとつながっていく。漫画をただの娯楽に貶めるわけではないが、少なくとも僕は漫画はほぼ娯楽のみを目的として読んでいて、一時的な楽しみのために消費しているといっていいだろう。少しふざけて言えば、学ぶことは持続可能な楽しみなのかもしれない。僕は学ぶことを通してより楽しみの幅を広げていくべきなのだろう。漫画とか消費可能な娯楽は膨大にあって、消費よりも生産の方が早いように見える。しかし、実際自分の好みに合った娯楽というのはそれほど多くないし、それを手に入れるにはコストがかかり、娯楽にふけってばかりというのはそもそも限界がある。また、現実的な観点から見ても、就職し働くうえで専門知識などを増やしておかないとまずい。また、身の回りにある手に届く限りの娯楽を消費しつくせば自然と学ぶことに意思が向くかといえば、経験上そうではないようだ。つまり、意識的に学ぶという選択をしなくては学べないらしい。とはいえ、何かを学び取る事の労力に怯えて、学んでいないというわけでもないような気がする。そもそも、知りたいと思う意思が弱いというのも否定できない。今日、自分の中で象徴的な出来事として、今自分がパッと死ぬとしても、それを嫌だと思う積極的な理由が見いだせなかったことだ。家族・親戚がつらい思いをするだろうだとか、友人は気分が悪いだろうだとかは思うのだけれど、自分がこれをできなくて悔しいとか、どうかこれが達成できるまでは生きたかった、というような願望が見つけられなかった。勿論これをしたいというのはあるのだけれど、結局のところ「まあいいか」といって手を放せるような願望しかなかった。なんだか中二病的で少し恥ずかしいのだが、自分の無気力もここまで来たかという感じだ。しかし、別に死のうとは全く思わない。特に理由はわからないが。今の生活が、単位取得などのことを直視しなければそれほど苦しいことのある生活では無いからだろう。特にお金に困っているわけでもなく、人間関係に不和があるわけでもない。しかし、このまま今の生活を続ければ社会に投げ出され、不快な生活が待っているかもしれない。そうなって苦しい生活が続けば自分は無責任に死を選んでしまうかもしれない。とはいえ、このような将来に対する不安が今の自分を動かす原動力にならないことは理解している。むしろ憂鬱になって行動を阻害するぐらいだろう。だから、僕は学ぶことをもっと生活に組み込んでいきたいのだ。

 

少し話は変わるが、学ぶことがうまくいかない理由としていくつかいくつか思い当たる理由がある。それは、僕の学び方、つまり、技術的な問題だ。恥ずかしながら僕の学び方というのは全く洗練されていない。僕は数学を専攻しているので数学の学び方になるが、大抵は、テキストを決めてそれの興味ある部分を読むといった感じだ。その時、証明を読んだり、よくわからない部分は丁寧にノートに書いたりするが、その時ひとまずわかれば、OKとして次に進んでいる。ノートはまとめなどを書くことはなくメモ用紙としてしか使っていない。もちろん定理の証明の論理が追えればよいというわけではなく、なぜこのような論証をするのかなども場合によっては深く考える。以上が僕の数学の学び方の大体である。僕はこれまでにテキストを読み始めて読み進めていくのだが途中でやめてしまうことが多かった。それが何故かという事なのだが理由は多くの場合、わからない部分があってそこを考えても考えてもわからず、嫌になってしまうという事が多かった。しかもそのような個所が重要であるかどうかに関わらず。つまり、僕は大局観をもって学べていないのが問題なのではないかと感じている。わからない部分をわからないままでとりあえず先にある目的を目指す。というのが必要なのだろう。もちろんわからない個所は後で戻れるように印をつけておいて。その上で、大局観を持つというのも難しい。それは大体の数学のテキストは様々な理論の基本的な定理を証明することを目的としている。それで、様々な概念を定義しながら主定理の証明の準備をしていくのだが、その準備は主定理が証明されれば不要となる梯子ではなくて、それらの準備と主定理を含めた総体こそが、理論の理解を可能にするように思う。もっと雑に言えば、様々な結果の全体から定義した概念のイメージのようなものが浮かび上がって、それを理解することが理論を理解するということということだ。だから、大局観といってもこの主定理の証明にはこの命題とこの命題が使われていてみたいなことを考えて、ロードマップみたいなのを作って、証明を読んで論理が追えても仕方ないような気がするのだ。論理的に関連していなくても、イメージを得る際に関係している可能性があるのだから。つまり、大局観はある程度学んでからでないと得られないのだ。だから、大局観というよりももっと雑に、ある程度の時間考えてわかんなかったら次に行くぐらいの粗い方針でいいのかもしれない。