評論を学び始めて

 評論を学ぶというカテゴリを作り、文芸評論を学び始めた。これまで全く学んだことのないジャンルなので学び方がわからない。とりあえず、頭から読みつつ内容をまとめて、その都度気になる点を書き留めるという方法をとることにした。慣れないからか1つの項目をまとめるのにもやたらと時間がかかるし、まとめてみたところで明晰に理解できたという感じもあまりない。僕の目的は漫画を論じることにある。面白いと感じる漫画に対し、ただ面白いと言う以上のことをしたい。まだ『批評理論入門』の内容をまとめ始めたばかりで知識もほとんどないのだが、現時点で『批評理論入門』から感じたことを記しておく。

 漠然とした言い方ではあるが、文章が1つの方法で表現されているとき、他の方法で表現された時とは違う効果を持つ。だから、文章が提示されたとき他にありえた表現の形式を想定することで、その文章を選択されたものであると考え、比較することができる。もちろん適切な比較の基準が取れるとは限らないのだけど、比較なしでは何もできないことを考えれば状況はかなり進歩している。

 当然これまでだって、何故これが面白いのかと考えているときにこうじゃなくて、こうだから面白い、と考えることは自然にしていたはずである。しかし、これまでは与えられた対象の中から比較の基準を見出していたけれども、この方法を明確に意識することで事前に比較のレパートリーを貯めておいて、それを出会った対象に比較基準として与えるということができるようになる。

 一方で批評理論にはあまりいい印象を持っていない。まだまとめてないうちから、こういうことを言うのは良くないのだけれども、『批評理論入門』の2章で述べられている批評理論全般に対し、なんかそれっぽいことを言っているだけなのではないかと感じた。『批評理論入門』に小説には複数の観点から見た際に相反するような解釈を導くこともあるというようなことが書かれていた。別にそれはいい。互いに相反する解釈があるからどちらかが間違っているか、どちらも間違っているか、もしくは文章がそもそも矛盾しているかのどれかだ、とか思っているわけではない。しかし、そのような解釈が正当性をもつという根拠がどこにあるのか。正当性という言い方は良くないかもしれない。正しい解釈を担保するものなんてないだろうから。こんな風に解釈できるんですよ、と言いたいのなら言えばいいと思う。そして、明らかにその解釈が破綻していない限りはその解釈が批判される筋合いはない。しかし同時に、その解釈を認める筋合いも無いのだ。なぜならそれが、空想の産物以上のものとする理由がどこにもないからだ。

 こう書いて改めて感じたのは、僕がしたいのは勝手な基準を作って面白い、面白くないを自分の中で決めたいということではなくて、他の人に、自分の感じている面白さを独りよがりな論理ではなく、対話可能な方法で伝えたいということだ。