記述すること

今週のお題「私がブログを始めたきっかけ」

久しぶりに文章を書く。このブログの一個前の記事を見ると2013年9月で、僕が1回生のときに書いた文章だ。今僕は3回生だが、最近、というかこ こ1年ぐらいだろうか。活力がない。いや、活力がないという表現が適切なのかもわからない。現象として表れているのは、講義にほとんど出席しなくなってし まったことと、数学に対する関心が薄れてしまったこと。もっとあるかもしれないが、いま思いつくのはとりあえずこの2つ。もちろんこの2つは互いに関係が あるだろう。

ここで、流れから少し外れるものの、なぜ再びブログを書き始めたかを書き留めておく。それは大きくは記述するためである。僕は上に書いたようにここ1年ほど活力が無くて、日頃漫然と過ごしている。僕は1日1日が特に何もなく過ぎていくのに不安を感じている。リアリティをもって感じられていないが、僕はもう22歳で肉体はこれから衰えていく方向に向かっていき、記憶力や思考スピードも落ちていくのだろう。したいことは色々あるのだ。しかし、それに熱中できないのは何故なのか。なんとなくはわかっている。それは僕の思考の癖で、何にでも理由を求めてしまうのだ。自分が確率論を学ぶことに面白さを感じた時、なぜ自分はこれに面白さを感じているのか。などという事を考えるのだ。自分の感覚の根拠などというのはわかるもの ではない。というか、わかったとしてもわかったことの根拠があるわけでその根拠の根拠は?とどこまでも終わりがなくて結局虚無的になって無気力になって終 わりなのだ。それはわかっているのだけれど、だからと言ってこの問いを発することをやめることはできない性分なのだ。僕はもう最近では、面白いと思ったら、その根拠を考えるのを抑えて行動するしかないと思いつつある。でも、なかなかできないのだ。何故できないのかの理由は多分、僕がストレスを潜在的に避けるようになっているからのような気がしている。勉強は興味ある分野なら始めてしまえば楽しくなってくるのだが、始めるまではやりたくない。それに比べて、寝たり、漫画を読んだり、コーヒーや紅茶を飲んだりするのは簡単で楽しい。そういう簡単な方にばかり心が流れているのだ。僕は我慢して何かを手にする喜びを忘れてしまった。過去に感じた覚えはあるのだけれど、今では実感をもって捉えることができない。そして1日を漫然と過ごした後、今日も何もできなかったと不甲斐無く感じるのだ。こんな心地良くも刹那的で心の奥底では不満を感じているような生活を脱却したいとまではいわないが、思考や行動をして経験や技能を積み重ねるような生活も織り交ぜて行きたいのだ。その理由は当然、自分が今の生活に不満を感じているからというのもあるが、大学卒業後に社会に出て、自分の望まない人生を歩まないためでもある。そのために1日1日の経過を身をもって捉えるためにブログを書こうと思う。つまりは日記としての役割で、今日は○○をしたというような記録でもいいから残そうという目的である。理由は他にもあって、日々なんとなく考えていることを形にするためである。いつもは頭の中だけで考えていて、ふと考えが中断されるとそれがそのままになってしまっていたりする。それを文章化して継続して思考できる形に書き留めておきたいという理由だ。そして、これが結構重視している理由で、人とつながりたいという理由である。僕がこの1,2年で感じたこととして、僕は人と一緒に何かを行うときに活力をもって取り組むことができ、喜びを感じるという事である。これが何故かというのは自分でもいまいち分からないのだが。これがブログという形をとった理由である。このような文章が他人にとって何か利益になり得るのかは甚だ疑問ではあるのだけれど。もちろん、この文章のような他人にとっておそらく利することのない文章を書いて人とつながろうなんていうのはおそらく難しいだろうから、読む人にとって利益になりそうな文章も書いていくことになるだろう。

話を戻して、僕が最近講義を受けていなかったり、数学への関心を失いつつあることについて書こうと思ったのだけれど、久しぶりに長い文章を書いたら疲れてしまったのでまた今度にする。

ちょうど今はてなブログでは「ブログを始めたきっかけ」というのがお題になっていて、少しこの記事の内容とはずれるものの概ね合致しているような気がするのでお題記事というので投稿しておく。このブログの認知度が高まりそうなので。