半可通

 最近はてなブックマークをよく見るようになった。以前ははてなのサービスはこのブログを書くことと、はてなブログのトップにあがっているホットエントリをたまに読むという程度しか利用していなかったが、いつからかブックマークも見るようになった。
 ブックマークコメントをしている人の中には個性の強い人達がいる。その中でも僕が気になったのはxevra氏だ。第一印象は過激なコメントをする人というもので、その攻撃性からあまり良い印象は持たなかったのだが、何度も目にするうちにそのお約束的な文言と勢いにハマり面白く思うようになった。それで最近では当人のブックマークコメント一覧を眺めたりもしていた。そして今日不意にブログをやっているかが気になり、確認するとそれはあった。
 ブログの記事をいくつか読んでいると、ある記事にコメントがついていた。そのコメントの内容は大体「当該の記事の内容のうち根拠が怪しい部分があるのでそれを指摘する文章を書いた」というものだった。その文章を読んでみると、批判点は細かい部分ではあるが確かに根拠が怪しい点を指摘しておりちゃんと批判にはなっている。一応有益な文章だとは思う。ただやはり批判点は細かいもので、何かケチをつけてやろうというモチベーションがあり、批判できそうなところを片端から集めて作られた記事だという印象がないではない。そういう意味で陰気な印象を受けた。
 僕はこれまでに何度か上記の批判記事のような文章を書いたことがある。このブログにではないが。それらは先の記事と同じようにある人の著作やブログから不適切に思える文章を引っ張ってきて、それが不適切な理由を説明するというようなスタイルで書いた。批判の対象とした記事はどれも数学に関するものだ。それらはどれも半端な知識に基づいており、的外れな部分に重点を置いたり、雰囲気ばかりで何を言っているのか分からなかったりと不適切なものであるにも関わらず、専門知識の無い人たちから一定の支持を受けていた。わざわざ批判をした理由は大きくは2つで、1つはもっと正統で素晴らしい記述があるからそっちに目を向けてほしいという義憤、もう1つは支持を受けていることへの嫉妬だ。一応内容は有益なものだと思う。しかし今回の件を通じて、客観的に見るとそのような文章は醜いものだと気づいた。無論、xevra氏に対して批判記事を書いた人が醜い、嫉妬に基づいて書いていると言っているのではなく、その記事を通じて自省した結果過去の自分の文文章に対してそういう認識をもつに至ったということだ。
 とはいえ不適切な記述に対して批判をすることは些細なものでも必要だ。大事なのはその時に相手を恥じ入らせてやろうという姿勢ではなく、その論点を発展させられるよう対話的な姿勢をとることだろうか。ここら辺はよく分からない。いややはり半可通に対してはよっぽど害がない限りは無視で、かなり有害なものはなりふり構わず批判するのがいい気がする。

岩波ブックオーダーを利用した

 岩波ブックオーダーという岩波書店のサービスがある。どういうサービスかというと岩波書店のWebページで欲しい書籍を注文し、代金を払い、書籍を送ってもらうというものだ。普段書籍の購入はアマゾンや大学生協で行うためこのサービスを使ったことが無かったのだが、少し前に初めてこのサービスを利用した。
 オンデマンド印刷の書籍を購入したため発注から届くまでには時間がかかり、ちょうど3週間かかった。時間がかかるのは書籍の紹介ページにも「お届けまで2~4週間程かかります」と明記されているので全く不満はないのだが、その間の連絡が全くないのには驚いた。注文すると直ちに自動送信のメールが送られてくるが、注文内容と代金の明細が書かれているだけだ。アマゾンでいう注文確認のメールで、その後1~2日ぐらいしたら、配送予定日などの情報が送られてくるかと思ったが、そのようなことは無かった。その後発送の連絡もなく、昨日突然届いた。届いたからいいはいいのだがもう少し状況を共有してもいいんじゃないかという気がする。2~4週間という割と幅の広い期間を提示しておいて何も連絡なしだと、いつ届くのかを長い期間気にしていなくてはならず、あまり気分のいいものではない。
 何故アマゾンではなく岩波ブックオーダーを利用したのかを書いておく。僕が今回購入した書籍はオンデマンド印刷で復刊されたものだが、アマゾンでも取り扱いがある。利用し慣れているという点でアマゾンで注文した方が楽ではあったのだが、アマゾンでオンデマンド印刷の書籍を注文すると印刷の粗いものが送られてくるという評判が僕の周りではある。僕はこれまで3,4冊アマゾンでオンデマンド印刷の書籍を買ったことがあるが、ものすごく粗いと感じたことはない。僕が購入したのはすべて数学書で、確かに一般的な数学書と比べると印刷の質は多少粗い。その粗さがオンデマンド印刷に由来するのか、アマゾンで注文したことに由来するのか、それは分からない。そういう訳で僕は周りから聞くアマゾンでオンデマンド印刷の書籍を注文することの難点をあまり認めてはいないのだが、印刷の粗いものによっては読めないほどのものもあったというような評判まで聞いたので流石に不安に感じた。その話を完全に信じるわけでは無いが、今回は岩波ブックオーダーで注文してみることにした。
 それで印刷の質がどうだったのかというと今回来た本の印刷はかなり綺麗だ。そのためもしかすると確かにアマゾンでオンデマンド印刷をすると汚いものが来るのかもしれない。僕が以前アマゾンで注文したオンデマンド印刷の書籍は目を近づけてよく見るとガタガタしていることが分かる文字が割とある。一方今回のものはそういうことはない。ただこれをもって岩波ブックオーダーに軍配を上げるのにはためらいがある。何故かというと以前アマゾンで注文したのが数年前のことだからだ。つまり単純に技術の向上、若しくは設備の更新により印刷が綺麗になった可能性もありうる。結局のところはよく分からないというところに落ち着く。
 断言をためらう理由は他にもあって、それは過去にアマゾンで注文したものも今回岩波で注文したものも同じ印刷所で刷られているという点だ。奥付にはいずれも「印刷/製本・法令印刷」と書かれている。このためアマゾンで注文したせいで粗くなるというのは無いような気がする。
 近いうちにアマゾンでオンデマンド印刷の書籍を購入する機会があれば比較できるのだが、今のところその予定は無い。

局所的に生きている

 最近人との関わりが少ない。1人でいるのは好きなので不満はない。あまりに長く人と関わらない期間が続くと無性に人に会いたくなることもあるのだが、少し前に週1で友人とゆるい感じの勉強会を始めてからは特にそういうこともなく、精神的に安定している。ただこう1人でいることが多いと、自分がどういう人間かについての認識が薄まるようだ。
 今日人と会議のような形で話す機会があったのだが、気に障ることがあったときにかっとなって相手にとって不快であろう言葉を吐いてしまった。今思い返しても相手に多少の非はあると思うが、避けるべき振舞いだった。相手への謝罪の念と自己嫌悪を感じる一方、そういえば僕はこういう振舞いをする人間だったなというある種納得するような感覚もある。そう僕は腹が立つと突発的に攻撃的なことを言ってしまったり、テンションが上がると思慮の浅いことを言ってしまったりするのだった。忘れていた。
 こういう振舞いは意識によってかなりの程度制御できることは経験的に知っている。しかしそれには知識として自分の性向を理解するだけでは足りず、自分の発言しようとする内容に咄嗟にストップをかけるための瞬発力が要る。そしてこの瞬発力は日頃から意識していないとすぐに衰えてしまう。
 僕の現状の生活ではこの瞬発力を維持するのは難しい。僕個人の自己嫌悪で済むのであればいいが、他人にも迷惑をかけるものであるからこの際どうにかしてしまいたい。で、対策法を考えたところ1つ思いついた。それは何か標語みたいに覚えやすい形に成型した自戒の言葉を常日頃から唱えて忘れないようにするというものだ。安易であるとは思うが悪くない気がする。肝心の標語をどうするかだが、今この眠い頭で深く考える気もないのでさっき思いついたのを記しておく。それは「攻撃性に気をつけろ」というものだ。これは「自分の攻撃性に気をつけろ」という意味合いなのだが「自分の」がつくと据わりが悪いので省いた。こんな抽象的な言葉では自分の攻撃性を実感をもって思い出すのは難しいような気もするが、しばらくの間はこの言葉と共に今日の自分の振舞いを苦々しく思い出すから効果はあるだろう。理想としてはしばらくどころでなく今後二度と過ちを繰り返さないことだが、時間が経てば経験は薄れてしまうから多分無理だ。結局僕は繰り返すと思うのだが、この標語がせめてその頻度を低くすることにつながってほしい。

盛りすぎだろう

 今日は夕食を外で食べることにしていた。他の人と一緒に食べる予定があったわけではなく、店を決めていたわけでもないが、自分で作らないことだけ決めていた。19時頃から腹は減っていたが、踏ん切りがつかずズルズルと先延ばしにしているうちに21時前になっていた。この時間になると開いている店が少なくなってくるが、ともかく外に出た。外はかなり寒い。あまりにも寒いのでさっさと済ませたいところだが、僕の家の近辺にはあまり良い飲食店がない。遠くまで行く決心はつかないものの止まっていても寒いので適当に歩いていた。すると次第に身体が温まってきて、それに伴い少し気分も揚がってきたので、散歩がてら少し遠くまで足を伸ばしてみることにした。とりあえず繁華街の方へ行ってみたが金曜の夜なので人が多く、面倒くさそうなので引き返した。普段あまり通らない道を歩きながら自宅の方へと戻ったが、その道中でも入りたい店は無い。結局30分ほど歩き回り自宅の付近まで戻った。この時すでに21時半近くになっていて、もう店を選んでもいられないので近所のとあるカレーチェーン店に入った。
 このカレー屋に来たのは2回目で1回目は恐らく3年前になる。再訪していない理由は一重にそれほど美味しくなかったからだが、こうも時間が経つとどの程度美味しくなかったかはもうわからない。確実なのは不味くはなかったということぐらいだ。メニューを見て、スタンダードっぽい雰囲気の漂うビーフカレーを注文する。カレーが来るまでの間にメニューを見ていると、この店のカレーがいかにこだわって作られているかを記したページがある。この店の来歴や使っている多数のスパイスの一覧、そして健康への配慮など。読んでいると期待が高まってくる記述だった。過去の否定的な記憶にも関わらず、これからどんな豊かな味わいのカレーが来るのかと待ち遠しくなるほどだった。
 カレーが来た。早速1口目を口に運ぶ。舌に意識を向けて芳醇な味わいを探す、がすぐに探し終わる。そんなものは無い。あるのは非常に没個性的な味だけだ。しかし没個性的であるという点に関しては頭抜けていた。「カレー以前」というとしっくりくる。いやそんなにしっくりは来ないが多少は表現できているかもしれない。確かにスパイスの香りは感じるし、ベースに野菜や肉のうま味があるのはわかる。ただあまりにも特徴が無く、あと一歩何らかの方向に踏み出すことで様々なカレーとして成り立つような万能性は感じるものの、これ自体ではまだカレーとは言えないような味がした。例えて言うならだし汁に塩を入れて飲んでいる感じに近い。
 こうなるとあのメニューはどうなんだという気になってくる。大口を叩いているんじゃないかと言いたくなってくる。味覚に個人差はあれど誇大であることは恐らく揺るがないだろう。自店の料理をメニューで美味そうに語るのは悪いことではないが限度がある。食べる方だってそこら辺のチェーン店にそれほど期待しているわけでは無い。そこそこ美味ければ十分だ。なのに予想を超えた美味さがあるみたいなことを書かれるとやっぱり期待してしまう。先入観で補正がかかって結果的に満足度が上がるのであればまだ良いが、出てくるのがあのストイックなカレーではギャップに気づかざるを得ない。

寝つきの悪い1人の人間として

 昨晩の寝つきは悪かった。ベッドに入ったのは0時をまわって少し経ったぐらい。目を瞑って、眠りに落ちるのを待つが一向にその気配はない。夕方に少し頭痛がして2時間ほど寝たので、それが影響しているのかもしれない。
 そのまま時間はどんどんと過ぎ、気づけば3時になろうとしていた。試しに何度か意識的にまばたきをしてみると瞼は円滑に動き、重さを感じさせない。腹も減ってきた。このまま横になり続けても望みは薄い気がしてきたので、一度起き上ることにした。トイレに行きながらどうしようか考えたところ、ひとまず空腹を解消し、温かいものを飲んで体を温めるのが良いだろうということになった。
 冷蔵庫を見てもそのまま食べられるものは無く、ちょうど飲料水も切らしていた。仕方がないのでコンビニに行くことにする。着替えて外に出る。歩きながらどこのコンビニに行くかを考えていると、最近ローソンでテイクアウトのミルクを売っているのを思い出した。この機会に一度買ってみようとローソンへ向かった。
 菓子パン1つをもってレジに向かい、レジでホットメープルミルクみたいな名前のものを注文するがメープルを切らしているとのことだったので、代わりにホットミルクを注文する。注文を受け、店員は背後にある飲み物を充填するための機械を操作し始めるが、すぐに立ち尽くすような状態になった。どうやらミルクを温めるのに時間がかかっているらしい。そのまま2分ほど待つ。そうするうちに箱を高く積んだ台車が2台3台と店に入ってくる。商品の搬入のようだった。レジの周りに目を向けると、中華まんや、からあげクンなどのホットスナックの棚が全て空になっている。この時間帯は機械の洗浄、メンテナンスや商品の搬入といった次の日の朝に向けての準備の時間に充てられていることが推察された。迷惑になる時間帯に来てしまったかもしれないと少し申し訳なく思った。
 注文してから5分ほど経ったころ、機械の準備が整ったようで遂にミルクがカップに注がれる。店員はフタを閉め、台に置き「どうぞ」と言う。カップを手に取ると、その軽さと中の液体の動く感じからカップの半分以下しか中身が入っていないことが直ちに確信できた。少な目とかそういうレベルの量ではないので、明らかに何らかのミスに由来するものに違いない。指摘しようとも思ったが、これだけの量が出て来るのにも時間がかかったことを考えると、まあいいかという気になり、それを手にして店を出る。出てすぐにフタを開けて中身を見るとやはりカップの高さの3,4割ほどしか入っていない。店員はフタを閉める前に中身を見ているはずだし、カップを手に持ってもいるのだから気づいていないはずはない。それをそのまま提供するという判断に非難の気持ちを感じないではなかったが、その時の店員の心境を考えると少し可笑しいような気がしてきて、それが勝った。1口飲むと案の定、生ぬるい。

撮っておけばよかった映像

 前に高知に観光に行ったとき、特に足摺海底館をもとめて竜串を訪ねたときのことだ。竜串の海岸は岩場になっていて、それらの岩は奇妙な形をしているのが少し有名だ。しかし岩の形は今回の関心ではない。

足摺観光記録 1/3 岡山~中村~四万十川~公園 - アドレナリン
足摺観光記録 2/3 公園~足摺岬~足摺テルメ~あしずり祭~公園 - アドレナリン
足摺観光記録 3/3 プラザパル~竜串~足摺海底館 - アドレナリン

 岩場にはフナムシが大量にいた。大量にいたといっても、よそと比べて遥かに多いという訳では無くて、見た印象として無茶苦茶いるなと思うほどいたということだ。同程度いる場所はいくらでもあるだろう。フナムシは近づくと一斉に逃げていくからじっくりと見るのは難しい。ただそのときにはその機会があった。
 海岸のある小岩は周囲が海水に囲まれ、一部だけが海上に露出していた。周囲の水深は浅い。恐らく潮の引いているうちはその小岩は陸とつながっていたのだろう、その小岩の上に1匹のフナムシがいた。岩の周囲は浅いとはいえフナムシにとっては脅威になるほどは深い。幅5,6cm程の水を渡ることが出来れば陸とつながっている岩へと移動できるが、フナムシには困難であるように思えた。潮が満ちればその小岩は海中に沈むだろうから、死を待つばかりだと思いながら眺めていた。
 フナムシは小岩の上をチョロチョロ動き回り退路を探しているようだったが、小岩の全貌が見えている僕にとっては無駄な試みとしか思えなかった。そのうちフナムシは小岩の縁の方へとじりじりと寄っていった。波のタイミングによってはそのままさらわれてしまうほどの場所にまで出ており、危うさを感じながら見ていた。
 それで、この後の記憶がぼんやりしている。最終的にフナムシは波の引いたタイミングを見計らって跳躍し、目標の岩に辿り着いた。それに感心したのは覚えている。しかし跳躍は一発で成功したわけではなく1,2回小さな失敗をしたはずなのだが、それがどのような失敗だったか思い出せない。この経験の肝の部分だと思うのだけれど全然覚えていない。僕にとって貴重なフナムシを凝視できる機会であり、内容もエンタメ性のあるものだったのだから動画に撮っておけばよかった。

 今日は雨が降っていて、明日には台風が来るらしい。風はまだほとんど無い。雨は弱くは無いが、それほど強くもない。それで買い物に行った。道中、ある飲食店の壁にパイプが埋め込まれていて、そこから雨水がどばどばと排出されていた。その光景が面白かったのでしばらく眺めた。通り過ぎた後、あれを撮っておけばよかったという思いが込み上げてきて、それをとっかかりとしてフナムシの事を思い出した。排水の様子は帰り道に動画に収めた。

美味いものリスト

 少し前から美味いものリストを作っている。名前の通り美味いものをリストアップしたものだ。iPhoneのメモ機能を使って作成している。何かを食べて美味いと感じ、記録しておくべきだと判断した時に追加することにしている。このようなリストを作っているのには理由がある。それは日々の生活の中で美味いものを食べたいと思ったとき、その欲求に十全に応えるためだ。
 美味いものを食べたいと思うときには、何かきっかけがあり食べたい対象が明確な場合もあるが、そうではなく何か美味いものを食べて安らかな気持ちになりたいというような漠然とした欲求が湧く場合もある。美味い物リストは後者の願望に応えるためにある。
 無策でこの願望に応えようと頭の中を「美味いもの」というキーワードで検索しても中々上手くいかない。大概の場合、ステーキや寿司などといった通俗的なご馳走イメージに引きずられたり、「最近食べたあれは美味かった」というような少し前に食べたばかりのものと結びついたりしてしまうことが多い。これらがその時求めている美味いものへの回答になることは少ない。
 この方法が上手くいかない理由は、美味いという言葉が単一の味や感覚を表す言葉ではないことと、美味いという感覚が反芻して思い出せるようなものでは無いことにあるように思う。つまり「美味い」という言葉から出発して、具体的な美味いものに辿り着くのは難しい。一方で料理名を提示されて、それが好きか嫌いかを判断するのは割合簡単だ。
 このことから容易に導かれる1つのアイデアは日頃から美味いものの情報を蓄積しておき、有事の際に参照するというものだ。
 このような考えから出発した美味いものリストだが、早速問題にぶつかっている。それはどのような基準でリストに入れるかだ。もちろん美味さが基準となるのだが、先も述べたように美味いというのは多様な味わいをひっくるめて1つの言葉にしたものだから、1口に美味いといってもその内実はそれぞれ違う。そのためリストに入れるかどうかの普遍的な基準が作れず、美味いけどリストに入れるほどでも無いというようなケースや、これは明らかに美味いが何か自分の中でこれのリスト入りを妨げる気持ちがあるというようなよくわからないケースが出てくる。当初、このような問題に対しリストを作る序盤で悩むのはあまり得策ではないように思い、とりあえず少しでも美味いと思ったらガンガンリストに追加するという方針を取ろうと考えた。しかし実行には移していない。
 それは、今のリストの状態が非常に良い雰囲気だからだ。僕の求めていたリストにふさわしい、言われてみれば確かにこれは好きだというようなものが良い感じに集まったものになっている。ここに有象無象の美味い物を放り込んでしまいたくなかった。
 現在のいい感じのリストを構成する食べ物のリストインの理由はその時その時の「入れるべきか」「入れないべきか」の2択の結果によるもので、その判断の根拠は自分でも言語化できない感覚的なものだ。こういう雑な方法はいつかはガタが来るとは思うのだが今のところは上手くいっている。なにか問題が生じるまではこれで行こうと思う。
 最後に現在のリストを公開しておく。
・みかん
イカのワタ焼き
・ちんすこう