「~しかない」という言い回し

 「~しかない」という言い回しを聞くことがある。「財布に100円しかない」や「徒歩で行くしかない」などは何の変哲もない言葉遣いだが、少し風変りな使い方として「彼には感謝しかない」とか「あの件に関して、あいつには怒りしかない」というようなものがある。僕の経験上では後者の用法は「とても~だ」という内容を言い表すときに用いられる。つまり「彼には感謝しかない」は「彼にはとても感謝している」という意味で、「あの件に関してあいつには怒りしかない」は「あの件に関してあいつにはとても腹が立っている」という意味で使われているように思う。
 僕は後者の用法があまり好きではない。それはこれが何故「とても~だ」という意味を表すのか理解できないからだ。別に「感謝」や「怒り」といった実体の無いものに対して在るとか無いとか言われてもよく分からないという意味で理解できないと言っている訳ではない。例えば「僕の心は彼への感謝でいっぱいだった」という文は「感謝の多寡」という不明瞭なことに言及しているが「感謝でいっぱい」→「感謝の程度が大きい」→「とても感謝している」という類推から特に引っかかりなく理解できる。しかし「感謝しかない」と言われてもせいぜい「感謝の気持ちがあり、それ以外の気持ちは無い」という意味にしか解釈できず、とても「甚だしく感謝している」という意味とは思えない。そのためこの言い回しを聞くといつも「これは『とても~だ』という意味で言っているのだな」という翻訳を脳内ですることになる。それが面倒ということは全くないけれど、僕はこの言い回しを機械的に「とても~だ」という意味に対応させる事しか出来ないので、含蓄の無い表現としてしか受け取れずつまらない思いをする。

平方イコルスン『スペシャル』第32話を読んで、そわそわしている

 平方イコルスンの『スペシャル』という漫画がある。トーチwebで連載していて単行本は第1巻が出ており、第1話から第20話までが収録されている。

スペシャル 1 (torch comics)

スペシャル 1 (torch comics)

最初の3話と第20話から第32話までがトーチWebに無料公開されていて最新話である第32話は11月12日に公開された。
 この第32話の内容は胸に迫るものがあり、しかも次にどうなるのかが気になって仕方がない場面で終わるため読んでからずっとそわそわしている。そわそわしたところでどうなる訳でもないとは分かりつつも落ち着かないので他の事が出来ない。一方でこの落ち着かなさも時間とともに消えていくことは分かっている。消えてくれなくては生活に差し支えるけれども、それと一緒に落ち着かなかった理由まで不明になっていき、後からこの経験が訳の分からない浮つきとしてしか思い出せないのは悲しい。そこで僕が今何を思ってそわそわしているのかを記しておく。
 このような目的でこの文章を書く以上、漫画の内容に関する記述を含む。『スペシャル』をもし読んだことがないならば、是非トーチWebに公開されている第1話から第3話を読んでみて欲しい。それが気に入るようであれば単行本を買っても楽しめると思う。無料公開されている話には個別に読めるものも多いが、第32話はそれまでの話を読んでいるかで受ける印象の深さが特に変わってくると思うので、経験の強度を重視する人は第31話まですべて読んでから読むことを勧める。とにかくこの文章を読んで『スペシャル』の内容を知るなんていうのは勿体ない。これまでの話を全部読んでいて、第32話を読んでそわそわしている人にこの文章を読んでほしいし、これまでの話を読んでいることを想定して書く。

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根拠を示せない判断

 今日は外に出ず部屋にいた。昼前と昼過ぎに講義はあったけれど、朝から考え続けていることがあり思考が途切れてしまうのが嫌で休んだ。しかし結局のところ昼時になっても考えがまとまらなかったので昼食を食べるときに中断し、そのままになっている。午後からどうしていたかといえば、2ちゃんまとめサイトを見ていた。まとめサイトを見るのはかなり久しぶりで最後に見たのはいつだろうかと考えると、少なくとも1か月は見ていないが、では2か月、3か月見ていないかと記憶を遡ろうとしたところで、全く手掛かりがないことに気づく。半年ぐらい見ていない可能性もあるが、その可能性を強める具体的な記憶は1つも浮かばない。もし誰かが3か月前に僕がまとめサイトを見ていた証拠を持ってきたら、納得も疑義もなく、そうだったのかと受け入れるような心持だ。
 しかしもし「久しぶりにまとめサイトを見た事」を人に話すとしたら、おそらく僕はポロッと「半年ぶりぐらいに見た」などと言ってしまうだろう。言うまでもなくこの「半年」という期間は根拠を示せないもので、「3か月」「1年」「1年半」等と言うのと根拠を提示できないという意味では同等なのだけれど、なんとなく「半年」というのがしっくりくる。
 このしっくりくる感じというか、何となくこんなもんだろうという感覚をどれくらい当てにしてよいのか、僕は経験上判断できずにいる。それはこの感覚が正しいこともあれば間違っていることもあるからだ。例えば近所のスーパーへの距離が思ったよりも長いと感じたことや、行ったことはあるが土地勘があまりない場所で「確かこっちに行けばよかったはず」という感覚を頼りにしていたら迷った経験がある。逆にスムーズに目的地にたどり着いたこともある。
 ここからこの感覚に従うべきかについて何かしら考えてみよう思ったが、これまでの経験をそれほど正確に覚えておらず、あるのは「割と間違える」というような曖昧な印象だけだと気づいた。この段階で云々するのは早いと思えてきたため一旦置いておき経験を蓄積してから再検討することとする。

怠けの受容

 自分にとって理解可能な文章を書こうという方針をたてたものの、特に論じれるようなまとまった内容を持ち合わせていないため書けずにいた。しかし考えてみれば、文章を書くからと言って何かを論じなくてはならないということもないし、むしろ日常的な事柄ほど内容も平易で、理解できる文章を書くための訓練としては適しているような気もする。

 そこで日記的に今日の事を記そうと思うが、今日はほとんど外出もせず部屋で過ごしている。部屋で何をしているかといえば、Web漫画の更新分を読んだり、はてなブログのトップに出ている記事で気になるものを読んだりという感じでだらけている。先週(日曜日を週初めとして)の平日は基本的に勉強していた。今している勉強は自分の関心ある事ばかりなので楽しい。そのため時には勉強に熱中するわけだが、そんなときには漫画を読んだり、漫然とブラウジングすることを下らないと思うこともある。一方今日のように勉強に手が伸びずだらだらとしてしまう日もある。しかしだらけることをくだらないと見下す過去の自分と、だらけている今の自分とを比べて一貫性の無さに自己嫌悪に陥ったりはしない。このような経験はもう何度も繰り返しているからだ。放っておけば、またやる気が出てきて勉強し始めるという自分に対する信頼のようなものがある。というより経験的に、自分を律しようとするよりもそのような楽観的な態度を持っていた方が再び勉強を始めるまでの障壁が低くなると感じているため、多少意識的にそうしている。

伊藤清三『ルベーグ積分入門』の難点とその解消

 ルベーグ積分の入門書として裳華房から出版されている伊藤清三の『ルベーグ積分入門』は非常に有名だ。

ルベーグ積分入門 (数学選書 (4))

ルベーグ積分入門 (数学選書 (4))

 初版は1963年とあるから50年以上も前の本だが、今でも測度論とルベーグ積分の入門書として広く読まれているように思う。グーグルで「ルベーグ積分 入門書」「測度論 入門書」と検索すると、どちらの場合も伊藤の本がトップ3以内に現れる。大学の講義でテキストや参考書に指定されることも多いだろう。僕も過去に4章までではあるが詳しく読んだ。
 これほど有名な伊藤の本だが難点もある。批判はネット上を軽く見たところでもいくつかある(例えばAmazonレビュー)が、その内容は「扱いが古い」「構成がよくない」などに留まり、具体的にどこが良くないのかを指摘した文章は意外なことに見つけられない。そこで、この文章では伊藤の本の難点とその解決案を記す。

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文章の書き方について

 僕は常々うまく文章が書けるようになりたいと思っている。うまく書けている文章とは以下の何点の条件を満たすものである、というような定義が自分の中にあるわけではないけれど、これを満たした文章を書けるようになりたいという条件はいくつも思いつく。その中でも優先的に満たされるべきだと考えている条件がある。それは、以下の4点だ。

  1. 文章中に現れる単語の意味が明確であること
  2. 論理的に書かれている部分では仮定が明記されていること
  3. 論理的に書かれている部分では矛盾がないこと
  4. 論理的に飛躍がある部分には非論理的であることが明記されていること

 このように条件を列挙したところで、それらの条件に現れる言葉の意味を明確にしなくては、それこそ「文章中に現れる単語の意味が明確である」という条件自体が不明確となってしまう。ただ当然のことながら、ある単語の意味を説明するには他の文章が必要で、さらにその説明内に現れる単語の説明という風に繰り返していてはいつまでも終わらない。だから明確という単語の意味を文章で必要十分に説明することは不可能だ。しかし、例えば「昨日は雨だった」という文章の意味、それぞれの単語の意味は僕には分かる。このように、文を構成する単語の説明は不可能であっても分かったと思える。だから、「文章中に現れる単語の意味が明確である」というときの明確という言葉は、「読み手が文章において現れる単語の意味が分かったと感じる」という意味だ。こう言うと、明確かどうかは読み手に委ねられることになり書き手はどうしようもないという話になるが、それは全くその通りだ。ただ、書き手は自らの書く文章を読むことができるので読み手でもあり、それも文章を理解しているかどうかを書き手が知ることができる唯一の読み手だ。だからまずは、僕の書く文章に現れる単語が僕にとって分かるような文章を書けるようになることがうまい文章を書くことの第一歩だと考えている。4点挙げた条件のうち2点目以降の論理的というのは記号論理学としてという意味で用いている。特に2点目以降の条件に現れる単語の意味で不明瞭な部分はないだろう。

 僕がこのようにうまい文章を書けるようになりたいと思うのは自分の書く文章が分かりにくいと思うからだ。例えば僕が過去に書いたこの記事
映画 ヒーローマニア 生活 感想1 - アドレナリン
は書いている最中から自分でも、文章中で用いている「展開」「ストーリー」「雑」などの単語の意味が不明瞭だし、批判としてご都合主義やリアリティの無さ等を指摘しているが、それが何故批判として成立しうるかを説明していないため言葉足らずだと感じていた。冒頭に言葉の定義を列挙したり、ご都合主義はどのような場合には批判の対象となりうるかを考えようとも思ったが、うまくまとめることができず書けなかった。

 今後は上に挙げた4条件を満たすような文章の書き方を考えたい。また、久々に文章を書いたのでこれだけの文章を書くのにも相当な時間(3時間ほど)がかかってしまった。時間がかかるとどうしても疲れて、書きたいと考えていたことを端折ることになってしまう。今回の文章でも2点目以降の条件の内容を例示を交えて明確にしたかったけれど止めた。書き方についての考えがまとまらなくても、文章を定期的に書き、慣れることが必要だろうか。

映画 ヒーローマニア 生活 感想1

 映画『ヒーローマニア』を見た。原作である福満しげゆきの『生活』は以前に読んだことがあり、面白かったので、映画化されるなら是非観たいと思い観に行った。
 それで、観た感想だけれども、面白くなかった。上映中にいつ終わるのかと待ち遠しくなるほどだった。面白いと思えなかった理由について考えたところ、
・ストーリーの粗さ
・ギャグのセンス
・ストーリーの改変
という3点思い当たった。一つずつ見ていく。以下は映画の内容に踏み込んで記述するので、ネタバレを気にする人は注意。
長くなったので、まず1点目の「ストーリーの粗さ」についてのみ投稿する。

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