完全版 ニュージョイス

 僕が高校1年まで住んでいた地域の僕の行動圏内に「ニュージョイス○○」というコンビニがあった。○○の部分には本当は文字が入るが伏せている。
 このコンビニに対して特に何か思い入れがある訳ではない。店内の様子は全く覚えていないし、入ったことがあるかさえもあやふやだ。とはいえ全く縁がなかったかと言えばそうでもない。このコンビニは家族経営だったが、その経営者家族の娘が僕と小学校で同級生だった。中学生の時も同級生だったかもしれない。僕は彼女と特に親交があったわけではなく、いま彼女に対する記憶を掘り起こしても出てくるのは家がニュージョイスだということと50音順で並んだ時に近かったということぐらいだ。このように僕のニュージョイスとのつながりは極めてわずかなものだ。しかしそれだけのことでも、ただのコンビニとは印象が違うもので未だに記憶に残っている。
 僕は今実家から離れた場所に住んでいて、さらに高校のときに引っ越したので、帰省した時でもニュージョイス周辺に行くことは滅多にない。だが、不意にニュージョイスのことを思い出す経験がこれまで2度あった。
 今年の正月に小中学校の友人と会う機会があり、集合場所が小中の頃を過ごした地域だった。それでどうせならということで早めに家を出て以前住んでいた地域のあたりを歩いて回った。このときニュージョイスは見ていないが、一通りに見て回って集合場所に向かう途中、急にニュージョイスの事を思い出した。思い出したといっても何かニュージョイスにまつわることを思い出した訳では無く、この「ニュージョイス」なる響きが頭に浮かんだだけだ。ただその時は「ニュージョイス」という響きが可笑しく思えてきて笑ってしまった。集合場所で友人たちにも、ニュージョイスのことを思い出させてやったらウケるかもしれないと思ったが、失敗しそうなのでやめておいた。これが1度目。
 2度目は今日でさっき夕飯を食べているときに、不意に「ニュージョイス」が頭の中に響いた。今回は全く面白いと思えなかった。

 googleマップストリートビューでニュージョイスを見てみたら閉店していた。こうなると今後、僕の生活とニュージョイスとの接点が増えることは多分無い。あったとしても今日のように響きを面白いと感じるぐらいだろう。それで僕の人生における(恐らく)完結したであろうニュージョイスとの関わりをまとめておきたい気分になりこの文章を書いた。

マキハラ現象

 僕の中で槇原現象(マキハラげんしょう)と呼んでいる現象がある。
 どんな現象かというと「過去に自分が外部から見聞きした内容を、それを見聞きしたということを忘れ、その後思考しているときにその内容が頭に浮かんだ際に自分で思いついたと思ってしまう現象」のことだ。すこし分かりにくい言い回しになったが、大きくは「自分で思いついたと思ったが、実は何かの受け売りだった」という現象の事だ。槇原現象の槇原とは歌手の槇原敬之のことで、この現象の名を冠している理由は過去にあったある事件における槇原敬之の発言による。

 「事件」というのは、槇原敬之がケミストリーに提供した『約束の場所』という曲の歌詞の一部が、漫画『銀河鉄道999』にあらわれるフレーズに酷似していると松本零士が主張し、盗作か否かで裁判沙汰になったことだ。この騒ぎについては次のWikipediaの「松本零士」のページの「銀河鉄道999裁判」の項目に大体まとまっている。

松本零士 - Wikipedia

また、次のリンクは実際の裁判の記録だ。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090106182202.pdf

 この騒動があったとき僕は恐らく中学生だったと思うが、当時ニュースでなかなかに大きく取り上げられていた。それほど熱心にこの事件の推移を見ていたわけでは無いので細かなことはあまり覚えていないが、槇原敬之が「自分で考えたつもりだったが、無意識のうちに真似をしてしまったかもしれない」という旨のことを言ったという報道があったと記憶している。
 しかし、改めて調べてみると槇原敬之本人は一貫して『銀河鉄道999』からの影響を否定していて、報道で僕が聞いた件の発言は松本零士による槇原敬之の発言の引用という形で述べられたもの(つまり、松本零士が「槇原敬之が『~~~』と言っていた」という形で述べたもの)のようだ。
 それはともかくとして、当時そのような報道を聞いた僕は槇原の発言(正確には松本による槇原の発言の引用)に対し、「そういうことはあるよな」という感慨を抱いた。そしてそれ以降、「自分で考えたつもりだったが、無意識のうちに真似をしてしまっていた」事態や「自分で考えたつもりだが、もしかしたら他人の受け売りかもしれないという不安を抱える」事態に遭遇するたびにこの事件を思い出し、気づけばこれらの事態を「槇原現象」もしくは「槇原敬之現象」と呼んでいた。

 先週「槇原現象」の命名の由来を意識させられる経験があった。先週僕は「なか卯」で昼食をとったのだが、その時店内に『約束の場所』がかかっていた。僕は驚いた。『約束の場所』は上記のような騒ぎがあり、なんとなくケチのついた曲だという印象を持っていた。しかも当時売れていたとは思うが、爆発的に売れたという訳でもないはずだ。10年以上も前の曲であるし、同程度以上の認知度の曲などいくらでもある。その数多ある選択肢の中から、この曲が選び出されたというのは大きな驚きだった。

 今回改めて騒動の事を調べたことで槇原敬之が実際に「自分で考えたつもりだったが、無意識のうちに真似をしてしまったかもしれない」的なことを言ったかどうかは不明であり、槇原本人はそのことを否定していることがわかった。このことを考慮すると「槇原現象」という名は槇原敬之にとって失礼なものだという気がする。やはり改めるべきだろう。とはいえ一度自分の中で定着してしまった名称を変えるというのは難しい。代わりになる良い名称があればそっちを意識的に使っていくうちに次第に変えられるかもしれないが、そのような良い案もない。ひとまずは心内で「槇原現象」と呼ぶのは良しとして、口に出すのは控えようと思う。

今年の夏のために 冷やし中華

 この文章は冷やし中華について書くのだけれど、冷やし中華という料理は地域または家庭によって結構な差異がありそうな料理だ。実際のところ差異があるのかは知らない。何故そう思うのかというとマイナーチェンジの幅が広いからだ。具材、タレ、麺の軽微な変更を積み重ねることで、同じ冷やし中華という名で呼ぶのをためらわせるようなものができそうだ。そのため、まずは冷やし中華について必要なだけの共通認識を作るべきだが、ここでは手間を惜しんで行わない。大まかに特徴を記すに留める。

冷やし中華の特徴
冷やし中華は大きく具材、タレ、麺の3つからなる。典型的には平皿に盛られており、ゆでた後冷やされた麺が第一に盛られ、その上に具材が散らされ、さらにその上からタレがかかっている。タレの量は皿の底に少し溜まる程度。具材はキュウリ、薄焼き卵、カニカマ、蒸し鶏などで、どの具材も細長く切ってある。タレは醬油ベースで酢による酸味が効いている。ごま油で香りをつけてあることもある。麺は弾力があり、表面がツルツルとしている。夏によく食べられる。

 実家にいたころは夏の休日の昼食に母が冷やし中華を作ることが少なからずあったため定期的に食べていた。今はもう実家を出ている。前に近所で冷やし中華を出す店を探したけれど見つけられなかった。そのため、食べるには自分で作らなくてはならない。しかし、冷やし中華を作るのは結構面倒だ。麺とタレのセットは夏にスーパーで出回るが、具材は自分で用意しなくてはならない。この具材の準備が曲者だ。僕は冷やし中華にはキュウリと薄焼き卵は必須だと思っていて、さらに具材は2種類では寂しいので他に蒸し鶏、カニカマ、トマトなどから1,2種類を加えることになる。麺を茹でる、卵を焼く、鶏を蒸すというのはそれぞれ独立していて一まとめにできず、異なる道具を必要とする作業で手間がかかる。また、それぞれの具材は少量ずつしか必要ないため材料が余る。これらの理由から滅多に作らずにいる。

 夏に冷やし中華を食べることは僕にとって大きな喜びだ。このことをさっきベッドで寝転んでいるときに思い出した。それで今年の夏は是非とも食べてやろうという気になったが、すぐに上述したような困難があることを思い出し気持ちが揺らいだ。少しして「事前に冷やし中華を作ることに慣れておけばよい。特訓しよう。」などという勢いのある考えが浮かんだが、同時に実際には特訓をしないだろうという確信めいた気持ちもあった。結局、これといった結論は出なかった。

メモ

17/03/16
すき家でキムチ牛丼を初めて食べたが、七味をたくさんかけた牛丼の方が好みだった。

商品紹介/東京青果株式会社
商品のページに、その商品を持つ社員の写真が載せてある。どれも表情が良い。果物のカテゴリでデコポン、紅まどんな、いちじくを担当している黒坂さんが特に良い。

17/06/25
ニューホライズン

本年の幸福をつかむ最良の方法

 もう過ぎてから2日経つが2月3日は節分だった。
 僕は2月3日にセミナーがあると思い、朝から大学へ行ったがそれは勘違いだった。急に予定を失い、帰ろうかと思ったが、このまま帰ったら日の残りをだらけて過ごすという予感がしていた。それで図書館へ行き、いつか確認しておこうと思っていた文献を読んで午前を過ごした。昼に一度図書館が閉まるので外へ出た。昼食に何を食べるか考え、前から気になっていた定食屋に行くことにした。定食屋の前では節分ということで巻きずしを売っていた。通常営業もしているのかは外から店内を覗いても判断できなかった。僕の目が悪いのが原因だが。寿司を売る店員に尋ねても良かったが、恐らく節分限定であろうこの寿司を食べるのも悪くないと思い寿司を買った。
 大学へ戻り、ベンチに座り寿司の包装を解いた。僕は恵方巻ではなく巻きずしと言って売っているのだから、寿司はカットしてあると思っていたが、カットされていない一本の太巻きだった。今にして思えば何故カットしてあると思っていたのかは分からない。最初は恵方なども気にせず食べていたが包み紙に今年の恵方は「北北西」と書いてあることに気づいた。その時僕は南を向いていた。別に恵方などどうでもいいと思っていたが向かいのベンチに移れば恵方を向くことができることに気づき、どうせならということでベンチを移った。完食した後、包装紙を見ると「今年も幸福を迎えましょう!!」「本年の幸福をつかむ最良の方法をお教えします。」「それにはチャンスと方法があります。」などといった不思議なテイストの文章が並んでいて、面白いと思ったので持ち帰った。大分しわくちゃになっているがその包装紙の写真を以下に載せておく。


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ドストエフスキー『地下室の手記』を読んだ

 はてなブログのトップに「やっぱりドストエフスキー読もうぜ!」という記事がピックアップされており、その中で『地下室の手記』が推されていた。
lfk.hatenablog.com
 過去に知人がこの本の読書会をしたという話を聞いたことがあり、気になっていたが読んでいなかった。再びこの本のことを聞いたことだし読んでみるかと思い読んだ。新潮文庫江川卓訳を読んだ。感想を記す。

 第1部を読んでいる途中で少し疲れを感じたものの、第2部に入ってからは読みやすくなり最後まで退屈せずに読むことができた。しかし、読みおえて振り返ってみれば、この本はただ退屈でないだけの本だった。
 第1部の内容はありきたりだ。根源的な原因が分からないからどうしていいか分からないとか、復讐しても自分が余計に苦しくなるだけだとわかって辛いだとか書いてある。確かにそうだとは思うが、別に言語化するのが難しくもないようなことが改めて書いてあるだけだ。敢えて合理性から逸脱した行為をすることが快感なのだという主張には少し興味を惹かれたが、その主張も別に説得力がある訳でもなく「私はこう思う」レベルの事が書いてあるだけで、そうですかという気になった。否定的なことばかり書いたが僕は第2部よりも第1部の方が好きだ。第1部の文章は内容は湿っぽいが調子がいいし皮肉も効いていて面白いからだ。
 第2部は第1部よりもよっぽど感情を動かされる。しかし、それはただ主人公が醜悪な振舞いをするから読んでいて不快になるというだけの話で、それは胸糞悪いニュースを聞いて気分が悪くなるのと一緒で大したことでは無い。そして、その主人公の振舞いというのも人格の設定を与えられた主人公が状況に応じて設定どおりの振舞いをするという機械的なものに映った。他の登場人物も物語に必要な範囲だけ作られているような薄っぺらさを感じさせるものだった。物語は登場人物同士で設定の範囲内での応酬ををすることに終始し、心情に全く奥行きを感じさせない。文章がうまく、ページ数が少ないため読み切ることはできる。もっと長ければ辟易していただろう。第2部に対しても否定的なことしか書いていないが、1つ気に入ったシーンもある。それは、そりに乗った主人公が馭者を何度も急かすのだが、どんどんヒートアップして終いには、

「これは前世の因縁みたいなもんだ、宿命なんだ!とばせ、とばせ、あそこだ!」
心のはやるまま、ぼくは拳固で馭者の首筋をなぐりつけた。

となる場面だ。物語上重要な場面でもないが、テンションの高さが伝わって来るようで好きだ。

黒田硫黄『大日本天狗党絵詞』を読んだ

 友人が前に黒田硫黄の『大日本天狗党絵詞』が最も好きな漫画だと言っていた。それ以来読んでみたいと思っていて、今日ついに読んだ。
 二度読んだ。二度目を読み終えたばかりで「いい漫画だったな」という感慨はあるものの、具体的にはあまりうまく書けそうにない。それでも今思うところを記しておく。内容に関する記述(=ネタバレ)を多少含む。
 僕は「面白かった」とか「感動した」というだけの感想は好きではないが、この文章には大体そういうことを記す。

 一度目は序盤中盤と淡々と読み進めた。終盤に話のスケールが大きくなり、東京がどんどんと破壊されるあたりから、その荒唐無稽さに少し馬鹿らしいと思いつつ読んでいると、そのままのドタバタ加減で、あっさりと日本が壊滅し、そのあとラストシーンが来て終わってしまった。つまり、一回目はとにかく読み進めていたら終わったという感じだった。こう書くと退屈だったかのように読めるかもしれないがそんなことはない。上手く言えないが、兎に角退屈することなく最後まで読んだ。「次にどうなるのか気になって仕方がない」というような熱狂とは無縁だが、ページをめくる手を止めることなく読み続けていられた。読み終えて「面白かったな」と思い、印象深い場面を振り返ろうとするも不思議と一つも浮かばなかった。それで、冒頭あたりを読み返していると、自然と最後まで再読していた。二度目では終盤の師匠に感動したが、どこに感動しているのかを考えても分からなかった。
 二度目を読んでも「ここがたまらない」という場面は思いつかない。それは、この物語がどんどん流転していって少しも安定しないからかもしれないと思う。ここまでで一段落などと息をつく間もなく次々と何かが起こり、そのまま日本が壊滅しシノブは一人になる。一部分切り出して語ろうにも、それ以前があってこそ情緒深い場面ばかりだ。